後頭部に強い痛みを感じて振り返ると、下品な言葉を叫びながら走っていく男子達。社会出た後ならば大問題だろうが、小学生の男の子など、どこも大抵そんなものだ。

授業中はうるさく、休み時間はちょっかいを出す彼等は、未知の生物

高校卒業までの12年間、共学の学校に通っていたが、私にとって彼等は未知の生物だった。
先ず授業中は兎に角うるさい。休み時間は周りの生徒を小突いてちょっかいを出し、挙句に文字にするのが憚られる様なしょうもない下ネタを飛ばし、しかもなんだか汗臭い。
授業が終わっても、彼等は変わらず忙しい。

ある日の彼らは、大雨の公園で、泥だらけで大爆笑しながら走り回っていた。私はずぶ濡れのクラスメイトを横目で見ながら、きちんと傘をさして濡れないように下校した。
「おばかだよね」
と友人が言っていたのも頷ける。
親達はあら、可愛らしいじゃない、と言って笑うが、同年代の私達からすれば、彼らの素行の悪さは全く可愛らしくなかった。

中学生になっても、高校生になっても、やはり同じような感想が出てくる。
卒業するまで、私と男子生徒との関係性はあまり変わらないままで、私には彼等の生態の謎が解けないまま学校生活は幕を閉じた。

異性同士の団結は共感部分が少なく、同性同士よりも遥かに難しい

無事学校生活を終えた今、振り返って考えると、異性同士の団結は、同性同士よりも遥かに難しい事だと思う。共感できる部分が少ないからだ。
勿論現在のジェンダーは多様化しているが、男性脳、女性脳と考えた時、根本的な違いが余りにも大きくて、分かり合えない部分が多い。

女子は「過程」を重んじるが、男子は「結果」を重要視する傾向にある。
テレビのコメンテーターや評論家でさえ、男性側と女性側で意見が割れ、主張がぶつかる場面をよく見る。
私達は、どこまで行っても分かり合えない。共学で学ぶ価値はそこにあると私は思う。男女がいれば、その分様々な生徒が集まりやすい。知らない価値観や個性に出会える機会が多くある。

「知らない」とは「未知」だ。人は解らないものや知らないものを怖がって、真っ先に否定してしまい易い。だが実際、世の中の大半の人間と出来事は、細部まで理解しきれなくとも、その存在を「ただ知っておく」だけでこと足りる場合が多い。

私達は「『知らない』を知る」という行為に、慣れていく必要がある

だから、私達は未知を未知ではなくする、つまり「『知らない』を知る」という行為に慣れていく必要がある。様々な「知らない」「わからない」を恐れず、攻撃しない姿勢を身に付けるには、しぶとく歩み寄っていく努力と、長い時間と経験が要る。
私達は恐らく、他人とは永遠に分かり合えないだろうから、今のうちに経験でそのことを確かめた方が良いのだ。

理解に苦しむ事も、理不尽に感じる事も、社会にでれば山程あるだろう。それらを、どうせ分かりゃしないと突っ返さずに、受け止める柔軟な強さを育てるには、はなから共感しあえないもの同士が共に過ごすのが一番早い。それを学んでいくことは、安い共感で満足するよりももっと大切で難しい。
多くの「知らない」と向き合って、いつかまた新たな未知に遭遇した時、それも可愛らしいじゃないか、とそう言って笑える余裕が持てたなら、それこそが本当の「理解」へ繋がるヒントになるのだ。