「あなたらしい、20歳の女性にしか書けない文章を見せてください」
それが、20歳の私に突き付けられた課題だった。

楽しいはずの脚本の演習が、徐々にスランプに…

二人姉妹の長女として、両親や祖父母の期待に応えるべく生きてきた私は、大学生になる際、「芸術」の分野に進路を取らせてもらった。
そこで受けていた脚本の講義は演習形式で、教授が学生から3つの単語を募集し、学生はそれを必ず入れて1本の物語を作り上げるという、落語の三題噺スタイルだった。
原稿用紙に手書きで、期限は1週間。毎週金曜日の2限に課題を提出し、新しいお題が決まれば、あとは自由時間。

元より空想好きな“女の子”だった私には、とても楽しい授業だった。
自分の頭の中を人の目に触れさせ、プロとしても活躍する大学教授に評価されるなんて機会は、そうあるものではない。

最初に書いたのは、とあるカップルの話だった。
ある男性が、とても美人な彼女と一緒に旅行に行く。美人な彼女と付き合えているのが幸せで、自慢だった。
だが旅館に宿泊した翌朝、隣を見ると知らない女性が寝ている。驚く彼氏。すると女性が目を覚まして、一言。
「とうとう知られちゃった。でもすっぴんでも、愛してくれるわよね?」

これは教授に大絶賛された。こういう女性がいると恐ろしいですね、と半ば冗談交じりに。

そこから私は調子に乗って、毎週欠かさず提出した。
例えば妻と離婚し、あまり会えなくなった小さな娘を連れて観光に行く話。かつて脚光を浴びたが、恋人に逃げられ、酒に溺れ、落ちぶれてしまった音楽家の話。骨董屋の店主を務める未亡人の小間使いをしながら、密かに思いを寄せる青年の話……。
シリアスなドラマからファンタジーな世界観まで、いわゆる妄想が止まらなかった。

だが徐々に、教授の評価は思わしくないものになって行った。原稿用紙の空白に、
「話は面白いのですが、書かれているのが男性目線ばかりなのが気になります。あなたらしい、20歳の女性にしか書けない文章を見せてください」
と赤ペンで書かれていた。
私は初めて、「作家のスランプ」を経験する事になる。

まさかこんな場所で“女性である”事を求められてしまうなんて

元々私は、幼少期から自分の性別に違和感を抱えていた。今で言うところの性的少数者だ。
だがそれは、高校を卒業してスカートを穿く必要がなくなってから、ほとんど悩まなくていい問題になっていた。
大学では「男子よりもイケメンな女子」で通っていたし、当時はそれが心地良い立ち位置だった。友人の男女比も半々だった。

それが、まさかこんな場所で“女性である”事を求められてしまうなんて。
今書いているのはエッセイだが、小説であれ何であれ、登場人物にはどこかに書き手の一部分が投影されるものだ。
そう考えれば、確かにおかしい。20歳の女子大生が、バツイチ子持ちの男性目線の物語を書くなんて事は。

私は空想のひきだしを開けてみたが、そこに「20歳の女性の考えそうな事」など入っていなかった。
そこで今度は、空想ではなく経験に頼ろうとした。
高校生の頃に付き合っていた彼女のことを思い出し、時間を進め、世間の目に忖度して、女子大生の友情なるものを描いてみた。

私は20歳になったばかりの女子大生。
友人たちと合コンに来たものの、あんまり楽しくない。男性陣はトイレに行き、女性陣も作戦タイム。すると酒に酔った友人が、耳元に顔を近付けてくる。
「正直、男といるよりあんたといる方が楽しいな」

教授の反応は、イマイチだった。
「女性目線は新鮮ですが、こういうのではありません。もう少しあなたらしいものを書けませんか?」
褒めてくれた初回とは大違いで、心なしか赤ペンで書かれている字も冷たく見えた。

“他人の求める私らしさ”なんて、探すものではない

毎週提出するのが、あんなに楽しかった講義が、辛くなり始めた。
教授の期待に応えられない事や、自分がおよそ一般的な感覚を持っていない事を叩きつけられ、悲しくなってしまった。
翌週のお題を見て、考えるのに疲れた私は別の授業で作った話を使い回す事にした。

主人公は引きこもりで不登校がちで、孤独な女子高生。容姿にもコンプレックスがあり、腕にはリストカットの痕が覗く。
舞台は叔母の葬式が終わって、親族が食事をしているシーン。前の席に座った社会人の兄は恋人との交際を得意げに話し、彼女に更なる劣等感と孤独を抱かせる。厳かだった親族も、酒が入ると無礼になり始める。
「……私も、遊園地、連れて行ってよ」
勇気を出して言うと、兄は驚いた後、小さく微笑む。
「気が向いたらな」
そう答えた彼の食事に、一匹の蝿が止まった……。

「これです! 私が求めていたのは! あなたらしさが実に出ていて、女性にしか書けないものだと思います!」
翌週、返却された原稿用紙に、教授の字が踊っていた。御歳六十を過ぎたダンディーな紳士の使うエクスクラメーションマークの存在感に、笑いが込み上げた。

同時に、私は他人の期待に応えようとする事の虚しさを知った。“他人の求める私らしさ”なんて、探すものではない。
そして、大学教授という肩書きやプロの目というのも、あまりあてにはしないでおこうと思うようになった。

この主人公の女子高生に投影されたのは、私ではなく私の妹だったからだ。