「才能がある」
これを読んでいる人は小さい頃、こう褒められたことはないだろうか。
「十で神童、十五で才子、二十過ぎれば只の人」
このことわざは、ほとんどの人が大人になるにつれて平凡になっていく、という意味である。私もその一人だ。学生のときは文章を書くのが得意だと思っていたが、書く仕事に就いたら全然なにもないことを思い知った。そんな私にかけられた2つの言葉について綴りたい。

発破をかけられた? 悔しさをバネにがんばるしかないらしい

24歳から28歳まで出版社で編集者をして、Web編集者としてIT企業に転職した。久しぶりにゼロから書いた私の原稿を見た上司はこう言った。

「ライティングスキルは新卒レベル」

いや自分、4年間編集者やってきたんだが……とプライドに触った。夫に相談したら「上司から発破をかけられている。試されている」と言われた。どうやら悔しさをバネにがんばるしかないらしい。

しかし、意気込んだ矢先に新型コロナウイルス感染拡大で、昨年2020年3月からリモートワークになってしまった。結論から言うと、私はリモートワークに向いておらず、余計に仕事がやりづらくなってしまった。
コミュニケーション能力が低いというのもあるが、人が発する言葉以外のサインや周りから聞こえてくる発言を頼りに相手の気持ちや周りの仕事の状況を把握していたところが、想像以上に大きかった。リモートワークだとそれが完全にできない。

私はスキルアップに行き詰まってしまった。相変わらず上司からの評価は伸びなかった。
むしろリモートワークでコミュニケーション能力が低いことが余計に目立ってしまったので、下がったと思う。
そんなわけで、もんもんと仕事をする時期が昨年はずっと続いた。
編集者に向いている人ってどんな人?書く才能とは?などと考えて、やはり自分にはこの仕事の適性がないのではと思った。

尊敬するフリーライターに、上司からの評価を相談すると……

そんな昨年の秋、かつて通っていたライター講座の忘年会のお誘いがきた。私が尊敬するフリーライターさんが先生をしている。書くことが好きでフリーライターになり、ほぼ365日書いているような人なら似たような体験をして解決してきたかもしれない。
私は忘年会に参加して、先生のとなりに陣取って仕事の相談をした。

先生からは具体的な解決方法や彼女自身の体験などは特に聞けなかった。ただ、ビビッときた一言がある。私が上司から「ライティングスキルは新卒レベル」だと評価されていることを伝えたときの返事。

「うーんそうかなぁ、安芸さんは書く才能があると思うけどなぁ」

「才能がある」
大人になってしばらくかけられたことのない言葉。「只の人」でも心の底では求めていた言葉なんだと、私はそのとき自覚した。そうだ、私にはなんにもないわけじゃない。それを証明しようと思った。

書く喜びの一つは、必要とされているということ。エッセイを自信に

そして29歳、20代最後の歳という滑り込みで「かがみよかがみ」にエッセイを応募している。朝日新聞の記者や編集者に原稿を見てもらえるのは、なかなかない機会だ。上司以外からの評価も受けてみたいと思った。

応募のためのエッセイを書いてみると、意外と楽しい。最初はこのテーマで書けるかなと思っていても、書きはじめるとあっという間に 1500字をオーバーしてしまう。毎回、文章を削る作業をする羽目になる。
今年も相変わらずもんもんと仕事しているのだが、エッセイ採用の通知がくると一転して晴れやかな気持ちになり、仕事に取り組めるようになることもあった。

私の文章は必要とされている。これは書く喜びの一つだ。仕事でも必要とされる文章を書けるようになるまで、採用されたエッセイを自信の支えとして精進してきたい。
私はあきらめない。