私はその時、本に夢中になっていた。
手にしていたのは古い本で、どうも日に焼けて黄色くなっていたし、スピンも先っちょが切れていた。けれど軽い気持ちで本を開くと、思いの他入り込んでしまい、実際体も前かがみになっていたのだと思う。
図書館員に立ち読みを注意されたのかと思い謝ったら、ただの男だった
男が話しかけてきたのも、最初はこのご時世長いこと立ち読みをしている私に対し、図書館員が注意しに来たのだろうと思い、私が発した一言は「すみません」だった。
だがそれは杞憂だったようで、男は図書館員ではなくただの男だった。というのも失礼だが、この図書館という場所では、図書館員と、その他は本を楽しむただの人間である。そこには明確な差はなく、身分や男女のいざこざも、きっとない。
私が発した言葉に対し、男は一度時間が止まったかのように表情を固めた。だから私は実際時間が止まってしまったのかと思った。得体の知れないウイルスが蔓延している昨今において、おかしな話ではないだろうと本気で思ったのだ。
けれどそれでは神様も忙しすぎる。男はふっと表情を崩し、聞こえていなかったのだろうと察したのか、恐らくもう一度同じことを、言った。
「虫、飛んでますよね」
何の話だと思った矢先、耳元で虫の羽音が鳴った。無機質な音のようでそうでなく、人間に侵略され続けるこの世界を、必死に生きる虫が鳴らす音だ。
突然のことに私は驚き、声を出すまではいかなかったものの、首をすくめてしまう。
「確かにそうですね。いま、通りました。耳元を」
拙い日本語になってしまったのは、虫に驚いたのと、それからその男が思いの他自分と歳が近く、おじさんなんかを想像していた私は、少したじろいでしまったのだ。
「本に夢中になりすぎる」。友達に言えないことも、その男には言えた
「すみません。あなたもその、虫を気にしているように見えたんですけど、違いましたか」
男は年齢にそぐわない渋い声をしていた。けれど低く響くような、耳馴染みの良い声である。それから眉毛が非常に綺麗に整っていて、「羨ましいな」と思った私は、つい無言になってしまった。
すると私が怒っているとでも思ったのか、男が焦ったような早口で言った。
「すごい、その、前のめりになって本を読んでいたので。虫を気にしていたのかと」
男はまたすみません、と申し訳なさそうに微笑むと、突如体を強張らせた。虫が通ったのだ。
男は私以上に驚いているように見え、少し笑ってしまう。迷った挙句、私は言った。
「本に夢中になりすぎると、そんな姿勢になってしまうことがあるんです」
私は自分が本を読む人間であることを、友達などにはあまり知られたくなかった。「偉いね」と言われるのが嫌だったのだ。
別に私は、偉くなるために本を読んでいる訳ではないのに。ただ好きで本を読んでいるだけなのに。けれど否定すると余計に話が嫌な方向へと進んでしまうので、いつも苦笑いをしてやり過ごしていた。
けれどこの男はきっと本が好きでこの場所にいるのだろうと私は思い、そうであってほしいという願望の側面もあったけれど。本に夢中になりすぎる、といった普段友達には言えないようなことを、その男には言ってしまった。
言ってから後悔した。やっぱり虫が気になっていたと言えばよかった。
虫をきっかけに、その男は私にとってかけがえのない存在に
男の反応を見るのが怖く、下を向いたものの耳元に羽音がかすめ、驚いて結局男の方を見る羽目になった。
男は予想に反し、どこか照れくさそうな表情をしていた。
「自分も最近その、本を読むようになって。家にいる時間増えたし。図書館に来る機会も増えて」。男は言った。
「少し立ち読みをしていて、このご時世あまりよくないとは思うんですけど。そしたら耳元で羽音が鳴って、びっくりして読むのをやめてしまいました」
男は手元の本を見た。私も好きな作家だ。声を上げそうになるのを、すんでの所で抑える。
「そしたら横にあなたが立っていて、虫が周りを飛んでいるのに、気にせず本を読んでいるから。すみません。自分嘘つきました。そこまで夢中になれるの、なんか羨ましくて、それでつい話しかけてしまったんです」
男性は「邪魔しちゃってすみません」とまた一言謝辞を述べた。虫はいつのまにかいなくなっていた。
本を借り終えて外に出ようとすると、自動ドアの近くに、「換気のため窓を一部開放しています」とあった。なるほど、だから虫も入り込むことに成功したのだ。
その後男とは図書館でよく会うようになり、私にとって、かけがえのない存在となった。
あの虫は元気だろうか。また会えたらお礼を言いたいものだが、虫にとっては良い迷惑でしかないだろうなと思う。