あなたは、大切な人から「愛してるよ」と言われるのと、「好きだよ」と言われるのでは、どちらの方がより嬉しく感じるだろうか。
きっと多くの人が、「愛してるよ」の方に、手を挙げると思う。
「好き<愛してる」、あるいは「恋→愛」みたいな図式が、私の頭の中にも、以前はあった。

夫婦間で好きと言う時間も、好きじゃない部分と向き合うことも諦めた

しかし、結婚7年目。今の私は、こう考えている。
「旦那とはこれから『あなたのここが好きだよ』『あなたのここは好きじゃないよ』と言い合って、お互いに恋をし続けて、生きていきたい」

私は嫁であり、母親だ。だから、家族のことは当たり前に「愛している」し、そんな気持ちを言葉にすることもある。
しかし、夫婦間で「好きだよ」と言い合う時間は、ここのところ中々とれていない。
家族5人、ひとつ屋根の下でくらしていると、パートナーに「好き」を伝える習慣は疎かになりがちだ。

また、旦那の「好きじゃない」部分に毎回向き合うということも、難しい。
カップルであれば選択肢に入る「別れる」というコマンドも、既に結婚している私達は、簡単には選べない。
加えて、子育てをしているので、「価値観を擦り合わせる」時間を捻出することすら、最近では難しくなってきた。

相手のことを肯定も否定もしなくても、離婚さえしなければ。愛を誓い合った私達の関係は、明日も続いていく。
そんな日々の中で、いつしか私は、旦那と「あなたのここが好きだよ」「ここは好きじゃないよ」と言い合うことを、諦めてしまった。
それはつまり、私が旦那との「恋」を諦めたということなのだと思う。

夫婦間の「恋」を諦めてしまえば、数10年後には、何が残るのだろう

しかし私は、旦那に言いたいことを素直に言えなかった時や、彼の機嫌を取るために動いてしまった後などに、ふと考えてしまう。
「愛しているから」といって、夫婦間の「恋」を諦めてしまえば、数10年後の老夫婦には、一体何が残るのだろうか、と。

私は現状、死ぬまで旦那と共にくらしたいと思っている。旦那のことは、家族として「愛」している。だから、「好きじゃない」部分も丸ごと「愛」で包み込むという選択肢も、アリといえばアリだ。

しかし、どうなんだろう。それって本当に「愛」ゆえの選択なんだろうか。
役所に提出した婚姻届けや、付き添ってきた年月によって生まれた、「情」によるものなのではないだろうか。

私には時折、「仮面夫婦」や「熟年離婚」という言葉が、どうしても他人事と思えなくなる瞬間がある。シビアな話だが、それはきっと、「恋」を排除した夫婦にとって、この先訪れるかもしれない未来のひとつだ。

離婚が珍しくない今の世の中で、私達夫婦は、一生を共に過ごせるのだろうか。そんな不安が、頭によぎる。
離婚した方が幸せ、そんな状況になる前にできることなんて、コミュニケーションをとることぐらいしか、ないじゃないか。

……ならば、面倒くさがらずに、とるしかない。「好き」だの「好きじゃない」だの、「恋」のコミュニケーションを。私は「情」に流されることなく、旦那と「恋」をし続けたい。そしてこれからも2人で力を合わせて、「夫婦のあり方」をアップデートしていきたい。

旦那と「終わらない恋」が続くことを願い、きちんと好きを伝えたい

そんな理想を抱き始めた最近の私は、旦那に思う「ここが好き」「ここが好きじゃない」を即座にシェアしていく方向にシフトした。
旦那を変えたくて話をしているというよりは、私の価値観を早めに知ってもらうために話しているという部分が大きい。
歩み寄るかどうかは、その都度旦那が決めてくれればいい。

そして、嫁の変化を感じた旦那曰く、「いくらちゃん、最近急にキツくなったね……」とのこと。
でも、数10年後に突然、「お別れしましょう」と告げるくらいなら、若いときから日々のコミュニケーションにベストを尽くして、「あなたのここが好きだよ」「ここは好きじゃないよ」というのを、きちんと伝えておきたいと思う。
その結果、「恋」も「愛」も守られれば万々歳だし、万が一それが叶わなくても、悔いは残らないと思うのだ。

夫婦の間に自然と生まれる「愛」、そして「情」。
しかし、夫婦間の「恋」は、意図的に継続させなければ、直ぐに消えてしまう。とても脆いものだ。
だからこそ私は、旦那を家族として愛し続け、その上で、「好きだよ」と「好きじゃないよ」を率直に言い合える関係を、守りたい。
そしてこれから先、50年ほどの人生。大好きな旦那と「終わらない恋」が続くことを、私は強く強く、願っている。