私の好きな岡本太郎の言葉に、こんな言葉がある。
「どんなに小さくても、未熟でも、全宇宙をしょって生きているんだ」
私は都内の公立小学校に勤務しているのだが、この言葉の重みを感じながら子供たちと日々過ごしている。
子どもの頃を思い出させてくれる、何事にも一生懸命な彼らとの日々
私が今年担当している学年は5年生だから、小さな命、というにはもう大きいのかもしれない。
彼らはもうなんでも知っているつもりでいて、大人に指図されるのを必死で拒んで、でもやっぱり、判断能力や責任能力はまだまだ発展途上で。
(これは決して、大人の方が優れている、と言いたいわけではない。私だって毎日、情けない失敗を繰り返しながら、みっともない感情のロールコースターに乗って必死で生きている)
私も子どもの頃こういうことで悩んでいたよなあと思い出させてくれるような、大人から見るとちっぽけで、でも彼らにとっては切実な、人間関係で涙を流し、憤慨し、そして仲直りする。
真夏の太陽がギラギラと照りつける校庭で、よせばいいのに全力で鬼ごっこをし、その後暑い暑いと言って水をがぶ飲みしてトイレに行く。
休み時間に四つ葉のクローバーを見つけたと言って、セロハンテープで押し花風にしてプレゼントしてくれたり、給食でスープをこぼしてしまった子を見て、何も言わずにさっとティッシュを取りに行ってふいてくれたりするのを見て、人のために動けて大人だなあ、と感慨に浸っていると、次の瞬間、算数のプリントが全部できたからと、「花丸書いてよ~」とおねだりしてくる。
そして、ノートにぱぱっと書いてあげた花丸を見て、全力で嬉しがる。
多忙な学校現場。ふと、彼らが放つエネルギーの素晴らしさに気付いた
昨年の担当は2年生だったから、算数で掛け算九九を勉強した。1の段から9の段までとにかく暗記して、先生にチェックしてもらう、という勉強方法は日本の小学校では未だ健在で、去年私は初めてチェックする側に立った。
私も自分が小学2年生だった時、学校で、家で、お風呂で、九九を一生懸命練習し、先生にチェックしてもらった。
だから、自分がチェックする側に立つというのは、なんとも形容し難い、くすぐったいような、嬉しいような、恥ずかしいような、体験だった。
彼らは、いくら私の目をじっと見たって、九九の答えが書いてあるわけでもないのに、私の目をまっすぐに見つめて、座っている私と同じくらいの身長の小さな体を緊張で硬直させて、九九を覚えること以上に重大なことなんて地球上に存在していなかったんじゃないかと思わせるような真剣な眼差しで、九九を言っていく。
あの切羽詰まった一生懸命さには、たかが九九で、と思うかもしれないが、こちらの胸を強く打つものがあった。
学校現場は本当に多忙で、朝子どもたちが登校してきた瞬間から下校の瞬間まで、息をつく暇もないことが多い。そんな中で、彼らのおしゃべりが多かったり、おふざけの度が過ぎたりする日には、こちらのエネルギーも消耗する一方で、下校したあとで、思わず、やっと帰ってくれた……と思ってしまうこともある。
でも、子どもたちがいなくなってがらんとした教室に立ち、床にくしゃくしゃになったプリントが落ちているのを見つけたり、出しっぱなしの体育館履きが廊下に転がっているのを見つけたりすると、彼らの放っていたエネルギーの大きさと素晴らしさに、気づくのだ。
教室には34人分の宇宙が詰まっている。彼らの人生に立ち会える喜び
くしゃくしゃのプリントを丁寧に広げてみれば、授業中はこちらも必死で見られていなかったけれど、一生懸命に漢字を練習した跡が見える。無造作に脱ぎ捨てられた体育館履きを見れば、「ちゃんとしまいなさいよ」という気持ちよりも、ああ、このちっちゃい足で、友達と駆け回っていたんだなあ、と、なんだか愛おしさが込み上げてくる。
そして、実感するのだ。
彼らは、どんなに小さくても、未熟でも、全宇宙をしょって生きているんだなあ、と。
いくら子どもとはいえ、もちろん彼らはそれぞれ独立した人格で、私には彼らの頭の中で何が起こっているのかなんて完全に理解することは不可能で、でも、だからこそ彼らが次の瞬間どんな反応をしてくるのか予想がつかないから面白くて、時には唸らされる。
私と彼らの教室には、34人分の宇宙が詰まっている。それって、すごいことだと思う。
そして、その34人分の人生の今、この一瞬に立ち会えていることを、ありがたいと思う。
彼らはこの先どんな未来をつくっていくのだろう。どんな未来だって、彼らがあの笑顔で笑っていられる未来であってほしい。
そして、私だって、全宇宙をしょって生きていることを忘れずにいたい。
彼らに恥じないように、全力で、自分の人生を、全うしたい。