私は小学1年生から高校3年生の5月まで無遅刻無欠席だった。
今のご時世では考えられないが、熱が出てもけがをしても一日も欠かさず学校に通った。
体育の時間にバスケットボールが指に当たり骨折していた時も、早退はしたくないと放課後まで我慢した。急性腸炎になっても風邪をひいても毎日学校に通い続けた。
私が学校を休まなかったのは「皆勤賞」が欲しかったから。それだけだ
私は別に学校が好きだったわけではない。家族は無理に学校に行かなくてもいいと言った。
なぜそこまでして学校を休むのが嫌だったのかというと、その理由は単純で、「皆勤賞」をもらいたかったからだ。12年間無遅刻無欠席という言葉を言ってみたかったからだ。
それだけの理由で、私は学校に通った。
ここで私の家族の紹介をしたい。
私には元気いっぱいの祖母がいる。彼女は髪を明るい茶色に染め、ワインレッドのデミオを運転する。声が大きく、1階から大きな声で朝私を起こすので、家の中でまるでミュージカルをしているようににぎやかだった。
彼女は私が悪いことをすれば容赦なくビンタをしてくるが、一番の私の理解者だ。学校を休まない私の応援をしてくれた。寝坊したときはこっそり学校まで送ってくれた。
高校3年生の4月、左腕の関節が腫れた。かかりつけの整形外科に何度か通ったが治らない。何度目かの通院の時、血液検査をすることになった。
それから約1週間、部活の顧問であり担任の先生が放課後、「今日は部活は休んで帰りなさい。おばあちゃんが迎えに来てるよ」と私に告げた。
後数か月で皆勤賞だったのに。突然の入院に泣くことしかできなかった
何か良くないことが起こったと感じた。家族に何かあった?誰かがけがをした?等々不安になりながら、祖母の車に乗った。
「何なん?」
「あんたの血液検査の結果が出たんやけど、なんか難病かもしれんのよ。検査入院するけ」
「へー(家族が死んだとかじゃなかった。良かった)。夏休みでいいんやろ?」
「そんな悠長なこといっとれんよ!ベッドが空いたらすぐ入院になる。学校は休みなさい」
初めて祖母が学校を休みなさいと言った。私は「いやだ」と言って泣いた。祖母も一緒に泣いた。
「体が一番大事やろ」
と、大きな声で言った。
その時に、私は初めて休むという選択をした。
悔しかった。あと数か月で12年だったのに。あと数か月で皆勤賞だったのに。健康だけが取り柄の私が休んだら、もう何も残らないと本気で思った。
検査入院をして、結果は問題なく、一時的な血液の問題だった。
他県の大きな病院での検査入院だったため、祖母が近くのホテルに泊まり込みで毎日来てくれた。
学校を休んで気付いた。「休むこと」と「途中でやめること」は別物だ
検査入院が終わって久しぶりの学校に行って、はっと気づいた。
「休む前と別に何も変わってない……。11年間休まんかったけど、1週間休んでも何も変わってない」
あんなに悩んで泣いたのに。
私が必死になって守っていた自分の中の「皆勤賞」は、実はそこまでこだわるものではなかったのかもしれないと初めて気が付いた。
検査入院の期間に色々と考えた。学校に行っていない1週間は無駄ではなかった。
「休むこと」と「途中でやめること」は別のものなのだ。
私はそれをたった1週間で学んだ。この1週間がなければ私はそれに気が付けずに、休めない大人になっていたかもしれない。
これは祖母の受け売りだが、
「自分の人生は自分で設計図を書いている。自分でここで苦労しようとか決めて生まれてくる。自分で決めた試練を自分で乗り越えられないわけがない」
今では「休んでもいい」「でも、途中であきらめない」と決めている。