くよくよ悩んでしまう私を支えてくれる家族は「元気」の源だ
就活中。学生生活最後の夏休みで、自分の進路に思い悩んで塞ぎ込むことが多い。ああでもないこうでもないとくよくよ悩んでしまうわたしを支えてくれるのは家族の存在だ。
「元気」は家族から得られる。
小腹が空いた時間にお茶菓子を食べ、紅茶を淹れて一緒に飲んだり、母と二人でおいしいパスタを食べに行ったり。仕事で忙しない父とLINEで些細な連絡を取り合ったり。無邪気でわんぱくな幼い弟は、見ているだけでも眩しいくらいの活力を得られる。
友人であれ家族であれ、大事な人とする気分転換や息抜き、ちょっとした交流でさえ、誰にとってもかけがえのないものだと思う。特にコロナ禍で新たな知り合いや対面での会話が減った現代においては。
入りたかった会社の面接に落ちた日、家族それぞれが励ましてくれた
家族から分けて貰える「元気」がなければ立ち直れなかったな、という時があった。
一社目、どうしても入りたくて受けた会社の面接に落ちた日だ。
採用結果の通知は、わたしを除く家族全員が家を空けている間に届いた。就職希望先から連絡が来なくて、茶封筒の厚みがない時点で何となく想像はついていたが、涙は出なかった。ただ紙を握る手が震えていたことを鮮明に覚えている。
しばらく放心してソファで横になっていたが、母と弟が幼稚園から帰ってきて、そこでようやく泣いた。自分なりに全力を尽くしていたことを知られていたために家族から責められることはなく、母の就職経験談や、就活はまだ始まったばかりで挫ける必要はないこと、次にしっかり生かしていこう、といった励ましを泣きながら聞いていると、普段はやんちゃで手が焼ける弟にハートマークの絵を渡され頭を撫でられた。
仕事中の父は、いつになく前向きなメッセージで励ましてくれた。
一昨日は庭先で花火をした。午後八時ごろ、既にみんなお風呂に入っていたのに、四歳児の弟がやりたいやりたいと言い出して聞かなかったからだ。
煙たい臭いがパジャマに付き、呆れ顔をしながらも家族みんなで手持ち花火の鮮やかな光を眺める夜は既視感を呼んで、どことなく自分の幼い頃を思い出した。同時に現在の自分も思い返す。
滅多に使わない携帯のカメラで、楽しんでいる家族の写真を撮った夜
わたしは成人手前で、独り立ちが間近で。いずれ職を得て新生活が安定しだす頃までには、親は少しずつ老い、弟は成長していく。もう何十年かすれば親に置いていかれ、弟を置いていく。
それまで携帯のカメラ機能は滅多に使わなかったが、今花火を楽しんでいる家族の姿を肉眼に焼き付けて、そして写真にも残しておくべきだと思った。年に数回の親戚の集まりで、滅多に会わない叔父や叔母がやたらと集合写真を撮りたがるのも終わりが見えている寂しさが理由なのかもしれない。
そう気づけた分わたしは少しずつ大人に近づいている気がする。
カメラロールには写真が十数枚と、長い動画が二本増えた。どれも暗くて花火に照らされた人の輪郭はぼんやりとしか見えないが、それでもずっと大事にしていきたい。
家族と楽しい時間を過ごした証も、家族自身も。これから長い人生を生きていく「元気」の源として。