29年間、私は「お利口さん」なまじめ人間だった

今、29歳。世間ではもう立派な「大人」になった。間近に控えた30代を前に、最近、自分のこれからのこと、過去のことについて考える時間が多くなった。

私は長い間「お利口さん」なまじめ人間だったと思う。
友人との約束は10分前に到着するし、面接があれば質疑応答も含めて予習し、1時間前には近場のカフェで待機する。何かを教わる時は全力でメモをとるし、提出物は絶対に期限内に出す。夏休みの宿題だって、余裕をもって進める。

我ながら、悪いことではないと思う。むしろ褒められることのほうが多い。
ただ、たまに自分で自分が嫌になる。ひどく疲れるのだ。だって、ルールを厳守し、全体の調和を崩ず、決して「誰にも迷惑をかけない人でいたい」ことが、原動力になっているから。
……何故、そう思うようになったのだろう?

家族だから、ディスってもいいの?受け流さなきゃいけないの?

どこの家庭でもあることなのか、我が家が特別だったのか、未だにちょっと分からないけど、我が家は「悪口は愛である」という文化だった。
小学生時代、「小数点の筆算」が全然わからず悩んでいたら、家族総出で馬鹿にされた。一般常識なんかも、ちょっと頓珍漢(とんちんかん)なことを言えばめちゃくちゃに馬鹿にされる。馬鹿にされるのが嫌で、段々口数は少なくなるし、「知らない」ということが怖くなった。

私の口数が減っても、家族の悪口がおさまるわけではない。上半身が細く、下半身が太いスタイルをした私の体型を見ては「脚は大根だね~!」と笑う。冗談で言っていることもわかるので、最初は「うるさいな~」と半笑いで反論していたけれど、両親はそれを「家族だから言えるのよ~」とやはり笑う。

家族だから、ディスってもいいの?
家族からからかわれた言葉は、受け流さなきゃいけないの?
そんな違和感を抱えつつも、「そんなものかなぁ」と無理やり納得させていた。それでも、言われ続ければそれはもう「呪い」。次第に脚が出るような服装はしなくなったし、細めのパンツだって履けなくなった。
ちょっとしたコンプレックスが、「呪い」によって大きなコンプレックスに変わっていった。

「お利口さん」であることが、唯一両親から褒められる言葉だった

そんな両親が唯一ちゃんと、言葉で褒めてくれるのが「お利口さん」であることだった。
親の言うことを素直に聞き、人様に迷惑をかけずおとなしめだった私は、「ちょっぴり破天荒気味」な姉と比較され、褒められることが多かった。

よく、「下の子は要領がいい」といわれるけれど、まさにそのタイプだったと思う。褒めてくれることが何より嬉しくて、お利口さんであることが、私にとっての正解なのだ……と強く思いながら思春期を過ごした。

それは社会人になっても大きくは変わらず、むしろ会社という組織に属していると「会社や同僚に迷惑をかけたくない」という思いが一層強くなっていった。仕事はチームで行うものだし、私が迷惑をかけて「叱る」人がいても「怒る」人なんて、本当はいないはずなのに。
他人にお願いすることや、失敗することがどんどん怖くなっていた。

これまで通り「まじめ」に。でも、自分にも誠実に向き合っていきたい

2ヶ月ほど前、会社を辞めた。忙しさとストレスで鬱っぽくなり、完全に自分が壊れる前に逃げ出した。最近は本当に少しずつだけど、良い意味で「どうでもいいや」と吹っ切れてきて、自分の気持ちや体調を優先することが出来るようになった。

私は吹っ切れるまで随分時間がかかったけれど、「お利口さん」である私しか付き合えない相手ならそれまでの縁だよね。と割り切るようになったら、随分気が楽になった。

今は、元々興味のあった分野の勉強をしつつ求職活動中だ。「人の迷惑にならないお利口さん」から、長所の「まじめ」はそのままに、周囲にも「自分」にも、誠実に向き合っていける30代にしたい。