お茶の水女子大学は憧れの大学だった。
この大学の存在を知ったのは中学生の頃。義務教育の修了が近づいてきた中2ぐらいのとき、進路について調べていたところ「女子大」という文字が目に飛び込んだ。
私がいた県には女子校・男子校がない。かつて女子高校があったものの、共学化の波に乗ってすでに女子高校ではなくなっていた。だから、別学に行くという選択肢はおのずと大学進学でのみ叶えられることだった。男子大学というものは日本にはないので(私の知る限りでは)、その県に生まれた子供にとっては女子だけに与えられた選択肢だが。
最後のチャンスで憧れの女子大に編入。女子だけの環境は楽だった
なぜ私が別学に惹かれたかというと、その時はごく単純な好奇心によるものだった。
女子だけで構成されるクラスとはどんなものなのか?
女子大の最高峰にはどんな才女が集まるのか?
心のどこかに興味を残しつつ、共学の高校に進学。大学進学について考えたとき、家庭科が好きだったので大学では生活科学を専攻したいなと思い、件の大学が候補に上がった。
そうして、女子だけの環境と、生活科学の最高峰という条件、国立大学の学費の安さ、それから東京にあること(本音を言えばこの立地が一番重要だったかもしれない)に惹かれ、お茶の水女子大学を目指すようになった。
学力が追いつかず、また、浪人ができなかったことから一度は諦めたものの、3年次から入学できる編入試験を知り、最後の賭けに出た。
幸運なことに受験科目は得意な論文・英語・面接から成るものだったので、最後のチャンスをモノにできた。
初めての女子だけの環境に身を置いてみてよかったと思ったのは、すべてを女子だけの力で達成できたこと。女子だけで何かを実行するのは、女子大なのだから当たり前と言えば当たり前だけれど、私にとってすごく気が楽になることだった。
共学時代を振り返ると、男女の力関係が次第に分けられていた気がする
別に、男子と何かをするのが嫌だった訳ではない。グループ学習や部活、文化祭などいろいろとある団体行動は同じチームのメンバーの性別がなんであれ、今までそれなりに楽しくやっていけた。だからこれは、私が女子大に入って得た思わぬ発見であった。
部活の部長も副部長も女の子、学園祭の実行委員会もみんな女の子、講義内で組むグループもみんな女の子。学内インターンシップでは僭越ながらグループリーダーを務めさせてもらったこともある。もちろんメンバーはみんな女の子。
ひるがえって共学時代のことを振り返ると、小学生の頃まではけっこう男女関係なく担っていたはずのポジションが、中学・高校と進むにつれて男女に分かれることが増えてきた記憶がある。
生徒会はなぜか会長が男子、副会長が女子というパターンが繰り返され、体育大会も同様に団長が男子、副団長が女子、という構成が圧倒的に多かった。
別に、逆パターンでも良くないかい?と思うが、トップは男、補佐が女という固定観念が教育現場にも浸透していたのだろう。私が支持していた女の子が副リーダー的なポジションに収まったときはなんとなく悔しい気持ちがした。
性別によってポジションが決まることにモヤモヤを感じなくていいのは楽
各行事では力仕事が男子、緻密な作業は女子というふうに分けられ、合唱コンクールでは男子が指揮者を担うことが多かった。力仕事に関しては確かに男子の筋肉量が増える頃なので合理的な対処ではあるのだけれど、握力に自信のあった私にとっては、力仕事に参加できないのが少し淋しく感じられた。
指揮者に関しては、伴奏で弾くピアノを習っているのは女の子が多かったので、バランスをとって指揮者は男の子、というふうになるのだろう。けれどこれも、逆パターンや両方男子・両方女子という場合が増えてもいいのでは?と思う。
ちなみに、私の父は小さい頃ピアノを弾きたかったのに、「男の子だから」という理由で習わせてもらえなかったそうだ。
そんな悲しい思い出を持つ男性はきっと日本にたくさんいるのだろうな。家庭が許せばピアノ伴奏ができたかもしれない男性か……習い事に性別は関係ないと思うのだが。
話が逸れたが、私は中学・高校で、性別によってポジションがなんとなく定まることにモヤモヤしていたこともあり、大学ではそんなことを全く気にしなくても良かったので、気が楽になる環境であった。
女子だけで何か困ったことはなかったので、ポジションに男女の別は関係ないのではないか、という私の疑問は晴れて解消された。
共学も別学も経験したから、社会で生きるための資産を手に入れられた
今日、日本のジェンダーギャップを問題視するニュースや言論を度々見かける。
私がかつて抱いたモヤモヤは、きっと子供の世界にも「ギャップ」が社会の写し鏡として現われた結果なのだろう。
そしてそれは、今もなお見直しをかける途上にある。
では、「ギャップ」を解消する上で、女子だけの学校・大学はどういう役割を果たすのか。
よく聞かれるのが、女性のエンパワーメントのためだという。社会に女性差別がある限り、性別役割から解放する学びの場が必要になるというのだ。
実際に「男女によるポジション分け」に対するモヤモヤから解放された私は、その恩恵にあずかったことになる。たった2年間だけだったけれど、共学も経験したからこそ、大きな気づきとして私が社会で生きるための資産になった。ポジションを決めるのに大事なのは性別ではなく、個人個人の向き不向き・特性なのだ。
ちなみに、私が専攻していた「生活科学」は、女子大に学部が設けられていることが多い。つまり、男子学生が「生活科学」を学ぼうとすると、進学先はどうしても女子より狭められてしまう。
ピアノを習いたかった男の子の悲劇と同じようなことが、日本のどこかで、大学進学において起こっているかもしれない。だから、もっともっと生活科学の門戸が男性に広げられてもいいのではないか、と密かに思っている。
性別による差別が解消され、エンパワーメントの必要性がなくなったときこそ、女子大学がその役目を全うした日になるのだろう。
私の母校が男の子にとっても「憧れの大学」になる日を願う。