10年以上、恋をしている。
それは、おおよそ世間一般では「推し活」に過ぎないとされるのだろうけれど、自分でも半ばそう思っているけれど、それでも彼を「推し」と呼んでは感情を持て余してしまうのである。
とりあえずことの顛末を、この場合だと末尾は存在しないが聞いてもらえるだろうか。

テレビ番組を見た彼を好きになり、周りが女の子ばかりで不安だった

順を追うなら、まずは出会いからだ。
約10年前。思春期には早すぎる小学2年生。たまたまつけていたテレビ番組で流れた、オーディションの映像。まだ、ぎりぎり、彼は何者でもない、ただの男の子だった。
このひと、好きだな。
その時の純粋な感想がそれだ。受かってほしいと、思った。
彼が受かったと知った時、とても嬉しかった。同時に、周りが女の子ばかりで、不安だった。
現在の私はその感情を「嫉妬」と呼ぶだろう。嫉妬のしの字も知らないような幼さが生んだ、あまりに愚かな感情。
恋だった。
あの醜さは、ただ好きという言葉で収められない。思い出すたびに、テレビの向こう側に懸想するなと、小さな自分を殴りたい衝動に襲われる。
こどもだった私は「恋」と「推し」の差異なんてわからなかったのだろう。そもそも世間に「推し」という概念が広まっていたか微妙な時期だ。それもあって私は、彼に「恋」していた。これに振るルビが「かんちがい」だとしても間違いではない。

半年ほど前、ふとしたきっかけで彼の名前を、姿を、再び見ることに

整理のつかない不安感、加えて番組の対象年齢層から私自身が遠ざかったことで、いつの間にか見なくなっていった。彼の名前を追うこともなくなっていた。
「それなら終わっているじゃないか」と言うのはまだ待ってくれ。ちゃんと続きがある。
半年ほど前、ふとしたきっかけで彼の名前を、姿を、見ることになった。
最初は気づかなかった。
あの子か、こうなるのか、成長ってすごい。
初めて見たような新鮮さと端々から感じる懐かしさとで感情をかき乱されて、彼に関すること以外の記憶はほとんどない。
知らないうちにソロ活動になっていた彼の周りには、女の子がいなくて、十年越しに安心して見ることができた。そして「知らない」彼が存在することが、「あの頃から好きです」と言えないことが、悔しかった。
後悔ではなく、同じような出会い方をしている彼のファンに負けているような気がした悔しさだ。
痛感した。私は何も変わっていない。
どころか、年を食って余計に醜くなっている気さえする。

「恋」だとしても「推し活」だとしても、好きですることには違いない

幼い私はこのことを本能的に危惧したのかもしれない、とすら思った。嫉妬心が肥大化して「恋」が醜く歪んでしまう前に、彼から目を逸らして、蓋をしたのかもしれない。
これでは、殴られるのは大きくなった私の方である。どうして開けてしまったの、と。
もしそうなら謝罪はしよう。だけど、もう一度しまい込みはしない。
「恋」に「かんちがい」とルビを振って、いや、いっそのこと「勘違い」と上書きして、「推し活」をしようと思った。
だって「恋」だとしても「推し活」だとしても、彼のことが好きですることには違いないのだ。
ずっと好きだ。10年以上、ずっと。忘れたくても、捨てずに、蓋をしておくことしかできなかったくらいには。無意識のうちに片鱗のある人に一目惚れして推していたくらいには。
そんなわけで、私は終わらない恋を続けている。楽しみながら、持て余しながら、時々惨めな気持ちにもなりながら。
そして、あまりにも当然すぎて言うまでもないが、一応末尾代わりとして言うなれば、これからもこの「恋」は、終わることがないだろう。