どうにもこうにもムカつくことがあった。
怒りすぎて本当に自分の心かどうかわからなくなるくらい。
いっそ冷静になって、何もそんなに腹を立てることはないだろうと言うくらい。
とにかく私は人にムカついた。
その子が再び裏切りを犯した時、私に固着性のある不快感が点滴された
人は相手に不当な何かをされた時、一度目ならば相手の謝罪を受け入れる、しかしそれが二度目となると、それはこちらの人間性に左右されるものに変わると思う。そして二度目の悪行になると、一度目の贖罪への裏切り、再発への疑惑、加えて蛮行を耐え許したこちら側への嘲笑が私たちを襲う事となる。
反復した過ちというのは回数に比例して罪深くなる物である。あなたにも経験がきっとあるだろう、「あぁ、またか」と脱力し虚しくなった人間間のトラブルが。
そしてその不義は残酷なことに、自分と相手がより親密であればあるほどこちらが受けるダメージは大きくなってしまう。
あの日、その子が二度目の裏切りを犯した時、それを許容できなかった私には固着性のある不快感が点滴されたのだった。
雨が降るわけでもない中途半端な白けた曇り空がここ最近の定例、滅入る湿度の中で私は不思議に思う。
なぜプラスな気持ちというのは持続時間が短いのであろうか、と。負の感情は私たちの腹の奥に長く燻るのに対して、美しいものはいつも儚かった。
今朝も私は十年来の友と楽しいおしゃべりをしたというのに、甘い飴は舌の上ですぐに溶けて、何日も前の陰湿がいつまでも胃もたれを起こすのだ。せめて晴れてくれればいいのに。
長い悲しみの夜、明るい文字を見たくない私は光量を絞り本にすがる
誰かの不誠実な行いはいつも私たちをイラつかせ、理解の不一致に憤り、最後は悲しみに無言になる。殺意と怒りは幸せ同様長続きしないが、悲しみの寿命は長かった。
そんな折の中で夜の帳が降りたなら、光量を絞って、窓を開けて、街の灯りと黒い山を眺めるのだ。
明るい文字を見たくない、そういう時に私は本に縋った。外光がなければ読み耽ることも叶わない活字の仙郷が、自らでは輝けない青白い月に似ていた。
本を読んでいると、これは双方の歩み寄りが不可欠なコンテンツだなあと感じさせられる。
双方というのはつまり書き手と読み手である、本を読むことは著者と読者とのコミュニケーションに比喩できると思うのだ。
作者が「これから話はこういう展開を見せるわけだ」と提案し、「ああ、了解。つまりここから面白くなるわけだ。しばらくお付き合いするよ」。こんな具合に読者は思考を明け渡し構える。
時に読者は退屈な文章に忍耐を迫られることがあるだろう、しかし、その分作者は最後にアッと驚くどんでん返しを手渡してくれたりする。結末にはしゃぐ私たちに、おそらく書き手の方達は安堵するのではないだろうか。「待たせてごめんね。楽しめたみたいだね」と。どちらかの独り善がりでは成り立たない、そんな本との間柄は、私の荒地を癒してくれた。
本の行間と、触るような静かな恵みの雨が負の私を洗い落としていく
私の敬愛する詩人、八木重吉氏はこんな事を言った。暖かく切ない、呟くように詩を遺した人である。
「私は、友がなくては、耐へられぬのです。しかし、私にはありません。この貧しい詩を、これを読んでくださる方の胸へ捧げます。そして、私を、あなたの友にしてください」
雨がトツトツと降り出した。本の行間と、触るような天の静かな恵みが負の私を洗い落としていく。
薄い文庫本をこうして慎ましい灯りの元で開いている。来る文字来る文字を追って行って、左端まで行けば紙をめくる。
それだけ。それだけで、私のジクジクと痛む心は前のページに置き去りにされて、しおりになることもなく押し花になる。
過去の物として保存された思いは、そのページを再度開いた折には思い出すことになるのだけれど、すでにそれは思い出の形に保存されていて、毒の牙は抜かれているのだった。