引き出しの中に、“くし”がいる。塗装が剥げた古いタンスの、上から2番目の引き出しの、予備のヘアゴムやピンやシュシュが雑多に放り込まれた、さらに奥に、それはいる。

歯が折れているから取り出して使うことはないが、確かにそこにいる。

無防備な私の心のどこかに、うっかりヒットしてしまったあの人の言葉

それは、憧れだったあの人が、何年も前、二十歳だった私にくれたものだ。二十歳の女子に“くし”って。しかも木製。洗いづらい上に、何だかカビそうである。

ずいぶんと渋いこの贈り物は、友達と箱根旅行に行ったお土産、なのだそう。箱根感を出そうとしたのか、寄木細工風のシールが貼られている。「あ、温泉饅頭とかじゃないんですね」と言うこともできず、とっさに気の利いたリアクションが取れなかった。

そんな私に、あの人は何でもないことのように、サラッと「なんか、髪が綺麗だから」と言ったのだ。冴えないと思ったお土産が、一瞬で素敵なプレゼントに見えた。単純だろうか。

言い訳がましいようだが、外見レベル“中の下”の私は、容姿を褒められた経験がほとんどなかった。低い背に貧相な胸、顔も下膨れ型で、お世辞にも美人とは言えない。

だからこそ「綺麗」という言葉が、無防備な心のどこかにうっかりヒットしてしまったのだろう。初心な女子には、効きすぎる殺し文句だった。

豚もおだてりゃ何とやら。さらさら髪にするため、評判の良いトリートメントとコンディショナーをセットで使うようになった。あの人に会える日の前日は、美容院でメンテナンス。貴重な大学時代、周りが髪を染めたり、ブリーチをしたりする中、バカみたいに真面目に、ストレートの黒髪を守っていた。ただただ、綺麗という賛辞に見合う髪でいたかった。

くしばが折れたのに、あの人にもらった「くし」を捨てられずにいる

ある日、絡まった髪を整えようとした拍子に、一本の歯が折れた。ちょうど、大好きだったあの人が、マッチングアプリで出会ったどこかの誰かと結婚した時期だった。物事には、一つ折れると、そこからバタバタといくつも倒れていく時がある。

何の話か。もちろん“くし”の話である。最初に折れた中央近くの歯を起点に、隣の歯も、さらにその隣の歯も、髪をとかす度に次々折れた。きっと、深い意味はない。一本折れると隣の歯にかかる力が大きくなって、折れやすいのだろう。

思えば、なぜその時点で捨てなかったのか。さっさとゴミ箱に入れればいいものを、「場所をとるものじゃないし」「捨てるのはいつでもできるし」と、捨てない理由を探してきた。

汗と頭髪の脂と、想いが染みついた、木製の“くし”。これが平安時代の文学作品なら、とっくに何か宿っていることだろう。

唐突に、断捨離にハマった友達の言葉を思い出す。「手に持ってみて、トキメキを感じないものは、まだ使えそうでも潔く捨てるの」。それなら、明らかに使えないのに、トキメキだけがべったりと染みついた“くし”は、一体どうすれば良いのか。

「綺麗」と私の心をトキメかせてくれたから、終わらせられない恋

ふと、髪に手をやる。いつの間にか、適当に束ねた髪は、枝毛だらけ。コロナ禍を言い訳にして、トリートメントは手抜きになり、美容院には半年も行っていない。ついでに湿気でうねりまで加わり、無残な状態だ。

「こんな髪ではあの人の前に出られない」という、どうしようもない感想が頭に浮かぶ。久々に美容院に行こう、トリートメントもして、丁寧にブローして出かけよう、と決意した。

別に、あの人の恋人になりたいとか、結婚したいとか、そんなことを望んだわけじゃない。私だって、あれから他の人と恋愛もしたし、お世辞を受け流せるようにもなった。

それでも、たった一言「綺麗」という言葉が「ブスは何をしてもブスだし」と諦めきっていた心を動かしたのは、事実だから。私はこの、トキメキの皮を被った未練を、完全には終わらせることができないでいる。

不毛だ、本当に。それどころか、なんなら客観的に見て気持ち悪い。そんなことは分かっている。けれど、こうやって時々想うだけなら、罪にはならないと狡いことも考える。

あの人の家庭はもちろん、私自身の将来だって、こんなどうしようもない気持ちで狂わせはしないと、誓うから。せめてもう少しだけ。あの“くし”をどこに入れたか分からなくなるまでは、手元に置くことを許してほしい。

誰にともなくそんな言い訳をしながら、醜い未練の塊を、二度と出てこないよう再び引き出しの一番奥にしまい込む。そうして今日も、髪を綺麗に整えて出かけ、「気になる人?最近そういうのは全然なくって」なんて言いながら、笑ってみせるのだ。