28歳の誕生日の頃、トリプルワークをすることを辞めようと思った。一人暮らし9年目、猛暑のやってくる手前の7月のことだ。
私は病気が原因で、大学を卒業するのが他の大学生たちより半年遅れた。同期たちと一緒に卒業できないことは、単純に寂しかった。そしてそれ以上に、就活をたった一人でやらねばならないということが苦しかった。
正社員ではなく、非正規雇用を選んだのは自分だから誇らしささえあった
病気を抱えたまま正社員になることが怖くて、いろいろなアルバイトやパート、契約社員を転々としていった。データ入力の仕事、塾講師、経理事務、小売の接客業、放送局のAD、児童相談所の保護所の支援員などなど、ダブルワークができればどんどんしていった。
田舎のバイトの給料は時給800円前後が多く、そうでもしなければ生活が苦しい。月に10万あるか、ないかの瀬戸際が多く、公共料金だって延滞を繰り返した。それでもそんな生活を選んだのは、自分だった。
大学を半年遅れで卒業する決意をしたのも私の意思。正社員ではなく、非正規雇用の職にチャレンジしていったのも私の意思。そして、自由に小説を書いていこうと思ったのも、私の意思だ。
不自由と不安さはあったけれど、それを選び取ったのは自分であるという誇らしささえあった。非正規雇用でも、複数の職場で「必要な人材」になるのは嬉しい。やりたいことをやると決めた、私の意思。母からは頑固者だとよくいわれる。
28歳を目の前にトリプルワークをこなしていた。私は疲弊していた
そんな私の生活は、27歳の終わり頃にはトリプルワークという形に集約されていった。昼間は小売店で接客をして、ダッシュで次の職場に向かい、夜勤や塾講師をこなす。家に帰れるのは早くても21時過ぎで、次の日も早くから接客業に向かう。
夜勤、日勤の接客業、夜勤の連日だってあった。月に200時間以上働いて、手取りは17万円。疲弊した体を引きずって、ただ目の前の仕事に向かうだけになっていた。
ある日の居酒屋で、大学時代の恩師が疲弊した私を見て「これからどうすんの」と厳しい声で言った。「正社員になったら給料は安定するし、そんなに働かなくてもいい」と、私を諭した。
もう28歳になるのも近く、体も限界だった私は、それはそうかもしれないけど、と渋った。忙しいことは楽しく、そういう生活を選んだ自分を誇らしくもあったから、トリプルワークの生活を続けることに未練があった。
同席していた正社員になった同期も「体が資本だよ」と諭してくる。彼らの言うことは正論で、だからこそ聞き入れたくなかった。
私じゃなくても大丈夫と感じる場面が多くなり、立ち止まることができた
折しも、塾ではメインで教えていた中学3年生たちの受験が終わり、辞めていったり、他の先生にかわったりしていて、私が教える生徒は小学生だけになっていた。卒業で減った先生も補充されて、夏の特別講習も私がいなくても十分回るようになっていた。さらに、接客業でも大学生の新人たちがどっと入ってきて、一通り教育も終わり、売り場で活躍するようになっていた。
あれほど感じていた「必要な人材」という立場が急速に薄れていった。私じゃなくても大丈夫。そう感じる場面が多くなってしまえば、トリプルワークというのはただ、辛いだけだった。
いろんなことが、たまたま同じタイミングで重なっていく。すると、私のなかで、やりがいも、楽しさも、金銭面も、自信も、ドミノを倒すように、ぱたぱたと倒れていった。トリプルワークの忙しさで見ないようにしていた苦しさも、喜びも、悔しさも同じように倒れていった。
そうなったとき、私の人生はこれでいいのだろうかと、自然と立ち止まることになった。けれど、それは不快なだけではなくて、ドミノが倒れた先が見晴らし良くなっていくことでもあった。自分ではめていた枷が外れて、ひゅんっと「正社員で一つのところで働く」という道が見えた。
立ち止まって見えた道はひたすらにまっすぐで、「それでもいいかもしれない」と思うようになった。そして今、私はトリプルワークを辞めて、正社員を目指して活動している。