「夢とか愛とか希望の、あと」
渋谷駅の女子トイレで見つけた香水瓶は空っぽで、きっと残り香から察するに素敵な大人の女性に使い捨てられてしまったものなのだろうと思った。
こんなところに捨てられて、かわいそうね。持ち主も持ち主で重たくて、もう必要なくて、捨てる場所にも困ったのだろう。
どちらも何だか、かわいそうね。

学生の頃、小説家を目指していた私。夢には捨て場所が必要だとは思う

私の同僚には何かを目指している人、または目指していた人が多い。アイドル、歌手、音楽家、小説家、等々。偶然なのか、類は友を呼ぶなのか。夢とか愛とか希望の捨て場所を探している人が多い。
いや、本当は捨てることなんか考えちゃいけないんだけれど、そんなの物騒だから。大事にしていたヴァイオリンを捨てた同僚の話を聞いて、私は山手線のなかで悲しくなった。チューハイ片手に浅草キッドを歌いたくなった。

私も学生の頃、小説家を目指していた。今はどうかというと、ぼちぼち新人賞に出してはいるが、これといって結果は出ていない。
小説は働いていても書けるから、ずるずると終わりがないところがいけない。私のそれはもう夢とかではないから、どこかに捨てられるのならば、捨て場所が必要だとは思う。墓石には、そこそこ一生懸命やりました、と書いて欲しい。

つらい人ほど物が書けるというけれど、それは本当なんじゃないかと思う。
幸せだから、もう小説が書けなくなっちゃったと微笑んだ友人は、実際に西表島へ最愛の人と旅立ってしまった。その後、彼女は本当に小説を書くのを辞めてしまったのだろうか。
家庭環境が複雑な人は恋愛で苦労するというけれど、それも本当だと思う。少なくとも私は苦労した。

お金のある年上の男の人と経験を元に、狂ったように書き続けた

お金のある年上の男の人にひたすら会って、付き合って、別れてというのを地獄のように繰り返していた。あのときの熱意には驚いてしまう。
それが楽しかったというよりかは、何かを見つけたかったのだろうと思う。愛とかだなんて素敵なものではなくて、人と人との分かりあえなさとかプライドの高さ故に傷つけ合う事とか、そういう現実寄りのものを自分の目で見てみたかった。

そして、そういう経験を元に書いて書いて、狂ったように書き続けたが、全然面白くなかった。ありきたりだった。そういう筋書きやストーリーはYouTubeにエモい音楽と共に流れているショートムービーみたいなもので量産されすぎていた。
その安っぽさに呆れて、全部辞めた。燃え尽きた。自分的には青春映画のワンシーンだった。よくやったぜ。

たくさん年上の男の人を傷つけたけれど、けろっとした顔で社会人になって、1人の男の人を愛して、家族になって、小説を書かなくなった。絵に描いたようなハッピーエンドだ。
じゃあ、そんな今の私が書くものは一体何だろう、という答えは、これを読む人に委ねてしまっている。

夢とか愛とか希望、全てを燃やし尽くさなきゃ消去法にもならない

これが何なのか、自分でもよく分かっていない。けれど多分、何かを書きたいという気持ちは変わらずにあって、シンデレラストーリーというと怒られそうだけれど、あんなに恋愛で苦労した私が、信じられないくらい安寧に暮らしている現在を思うと、きっと日々を生きるのに大事なのは、夢とか愛とか希望の、それら全てを燃やし尽くしたあとに人が何を選ぶかという事な気がする。

結局、喉から手が出るほど欲しがるものが夢でも愛でも希望でも何でもいいんだけれど、燃やし尽くさなきゃ消去法にもならないでしょうから、そこは全力で人生とぶつかっていきましょう。

この前、恋人がスーパーで大量にプレッツェルを買い込んだあと、それを家で食べながら、これはプレッツェルの形をしたプリッツだと神妙な面持ちで語っていたのが可愛らしかった。

何はともあれ、久しぶりに物を書いたから、とっても愉しかった。明日も頑張って社会人でもやりますか。
願わくば君は、夢とか愛とか希望とか、全部手にしてね。そう思いながら私はいつも子供を抱き締めている。
小説家にはなれなかったけれど、そういう自分が私は嫌いじゃない。