サードカルチャーキッズという言葉がある。
両親の生まれ育った国を第一文化、自分が生活を送る異国を第二文化とするとき、そのはざまに生じる第三の特異な文化の中で生活する子供たちのことである。
特に人格形成に重要な思春期を第三文化の中で過ごした子供たちは、独特の世界観を持って社会と接し、外国語の習得や異文化理解の機会を得る代わりに、時にアイデンティティの不安定さに悩まされることもあるという。

最も相応しい自分に切り替わる瞬間、感じるサードカルチャーの苦味

私は東京で生まれたが、幼少期と青春時代を異国で過ごした。学校では英語やフランス語で勉強する一方で、家では家族と日本語で会話をする日々を過ごした。

その言語に応じたパーソナリティと価値観を瞬時に入れ替え、その場に最も相応しい自分に器用に切り替わるその瞬間、サードカルチャーの苦味を感じていた。
本当の自分は一体どこにいるのか。
自分というものが一つの文化や言語では形容できない日々。自己の中核を定められないのなら、必要に応じて一つでも多く創ってしまえば良いという考えを持つようになった。
多国籍なクラスメイトとの関わり、ボランティア、地域交流に積極的に参加した。多面的な自分を演出することで、本当はないはずの確固たる個の確信が得られる気がしたのだ。

そんな中、私に確かな手応えを与えたのが、エジプトの国際学校で出会った独特の教育だった。
ただ情報を暗記してテスト用紙に吐き戻すだけの単純な反復学習ではない。
「芸術の価値は誰が決めるのか」
「幸福の定義とは何か」
「先住民の知恵と最先端のテクノロジーはどちらが重要か」
私が問われていたのは誰も答えを持っていない、真の社会の疑問だった。
私はこれらの課題にプレゼンで答え、エッセイで答え、アート作品で答え、ディベートで答え、計算式で答えることを求められていた。それは私の小さなサードカルチャーを拡張するような、壮大な文化への挑戦に思えた。

「君の好きな話を聞かせて」。教授が出した課題は意外なものだった

大学受験を控えた私はグローバル人材らしく、訪れてきた国々の社会問題を解決するような優秀な志を持つようになるよう仕向けられた。
大学には大学の、期待された姿があり、文化がある。結局はより高度な型にはめられるだけではないのか。そんな居心地の悪さが私を支配し、大学選びに苦戦した。
見かねたキャリアカウンセラーの助言通り、イギリスの大学を受験した。
そして私は所謂名門と言われる大学の門を叩いたのだった。
面接官は教授ただ一人。私は用意してきた回答例を反芻しながら難問を覚悟した。
しかし、教授が私に出した課題は意外なものだった。

「君の好きな話を聞かせてくれ」
あらゆる難関試験に頭を捻り、グループディスカッションや自己アピールという競争を勝ち抜いた先にあったのは意外にも、自由な時間だった。
問題すら定められてはいない、そのまっさらな海に道標は見当たらない。

一生懸命勉強し、考えてもわからなかった。自分とは、世界とは何か

こんなにも素朴な投げかけによって振り出しに戻ってしまった気がして、それが可笑しかった。
ありのままの自分が一度溢れると止まることはなく、面接が終わるころにはすでに評価されることを諦めていた。
突然故郷である日本のことを思い、ずいぶん遠くまで来たなとしみじみと思った。
「わかりません」
精一杯話した最後に正直に答えた。一生懸命勉強し、考えた。しかしわからなかった。
自分とは何か、世界とは何か。懸命に紡いだあの時の回答を私はもう覚えていない。

数年が経ち、外国語講師になった私は「先生だったらこの質問にどう答えますか」と生徒に聞かれることが増えている。私はそんな時、最大限に面白いことを語ってみせるように心がけている。
しかしその度にあの面接のことを思い出し、自分の中のサードカルチャーが微かに揺れるのを感じている。「自分にしか語れないことが必ずあるはずだから」そう言って生徒の背中を押す私姿は自信に満ちているだろうか。
誰もが自分と社会とのはざまで迷うが、その迷いの中にこそ、伝える価値のある話が溢れているということを、今の私はよく知っている。