置かれた場所で咲きなさい、私はこの言葉があまり好きではない。
その理由として、「置かれた」という表現は「他人によってもたらされた」というような趣旨の意味にとれて、自分にとって不都合な状況下でも頑張れることってあるよねってことである。
失敗知らず、怖いもの知らずな人間だった私が、大学受験に失敗
しかし私はこれまで生きてきて、自分の選択に絶対の責任を持って生きてきたため、つまり環境を選択しているのは自分自身だから、不都合な状況を嘆くのは言い訳でしかない。だから言い換えるならば「自分自身で選びとった場所で咲きなさい」だと思うのだ。
まだこれなら受け入れられそうだ。だが好きな言葉ではない。
しかし自分の選択に自信をもてる状態というのは、あまり失敗をしたことがないから言えることではないのかと思うのだ。または、失敗は成功のもとということわざのように、失敗をしても成功に昇華する事ができてきた。
どちらかと言えば私は順風満帆な人生を歩んでいたように思う、失敗知らず、怖いもの知らずな人間だった。
そんな私が去年大学受験に失敗した。現役合格をしたかったが叶わず、私は浪人することを選んだ。
私が受験した大学は浪人して入学する人が多い美術大学だ。この1年、浪人生活を通してたくさんのことを学んだ。去年の失敗は必要な出来事だったと捉えられるくらいには、自分にとってプラスになった1年だった。
自分の選択に自信を持てず、選んだ大学はまさに、「置かれた場所」
しかし本題は今年の受験である。第一希望だった大学には、またも一次試験であっさり落とされてしまった。呆気なかった。努力と結果はイコールではないのだと失望した。
そして今、行くつもりのなかった大学(といっても美術を学べる大学ではあるが)に通っている。つまり私にとって今は不本意ながら「置かれた場所」とも言える。
さっき述べたように私は「置かれた場所で咲きなさい」という言葉が好きではない。自分で選びとった場所で咲きたいからだ。
本当に第1希望の大学に行きたいのであればもう1年、もう2年と浪人することは私自身が強い意志で選び取れば不可能ではなかったからだ。
けれど私は自分の選択に絶対の自信をもてなかった。だから他の行くつもりのない大学を受けた。世間体とお金を気にしたのだ。
この選択は妥協だ。行きたかった大学に行った友達を見て、学歴コンプみたいになっている自分がとても気持ち悪いと思った。そんなことを大学に入学してからというものモヤモヤと考えては落ち込んでいた。
しかし先日、浪人生時代の友人とご飯を食べに行った。年齢の幅こそあれど今みんな1年生で、そこにいたメンバーは自分と同じく1番行きたかった大学には行けなかった人達だった。
色々と妥協した結果でも、自身で選んだ場所にいることには違いない
色々な話をした。最近作っている作品の話とか浪人時代の話とか、久しぶりの再会ということもあり盛り上がった。そのうちの1人が私に言った。
「お前が去年つくっていた動物彫刻は本当に傑作だったよな、あれは感動した」
目が覚めたような気がした。なぜなら環境を整えたからといっても貰える言葉だとは限らないからだ。
その先を見れていなかった。自分が作ったものが誰かの中に今も生き続けているということにとても喜びを感じた。とても嬉しかった。そしてこの半年間の惰性的だった自分を恥じた。
「置かれた場所」にいると思っていた私だったが、そんなことはないのだと思った。私は自身で選び取った場所にいると思うのだ。それが自身の力不足とお金とを色々妥協した結果であっても、それを含めての選択なのだから。
だから置かれた場所では咲かない。選びとった場所で咲きたい。そしてもう自分の足をつけている地ばかりみているのではなくその先を見ようと思うのだ。
進むべき先をしっかり見つめられるように。次にまた最高の選択ができるように。