「ごめん、結婚は全然考えていない」と彼に言われたとき、すとん、と心が壊れる音がした。あんまりにも迷いなく真っ直ぐにそう答えるものだから、乾いた笑い声が出た。本当に自然に、息をするように涙が出た。
そうか、このひとはヒーローになってくれないのか。なるほど。そういうことか。
こういうとき、心が冷え切るのが早いのは、大人でよかったと思う数少ないことのひとつだ。
たったひとりのヒーロー。大きな無償の愛で、私を愛してくれた
私には、血の繋がったヒーローがいた。
そのたったひとりのヒーローは、無口で、手先が器用で、身体が大きくて、涼しげな目つきをしていた。
私は、彼の低い声が大好きだった。あの声で名前を呼ばれるとき、私は自分が世界で一番幸福な子どもだと思えた。彼が歯を見せて笑う顔をみると、これ以上ないくらい嬉しくて、子どもながらに「このひとを幸せにしたい」と思った。
日曜の朝は、ヒーローが乗るバイクのエンジン音が目覚まし時計だ。早朝の7時、青い車体が煌めく、モリワキのレーサーバイク。
私はそのレーサーバイクを、いまでも世界で最も美しいバイクだと思っている。
決して、陽気で親しみやすいヒーローではなかった。でも、どんなときでも守ってくれた。私の味方だった。愛している、と言われたことはない。しかし、大きすぎるほど繊細な無償の愛で、私を愛してくれた。
ヒーローがいなくなった日は運悪く私の誕生日。涙は出なかった
私は、あまり泣かない子だった。
ヒーローがいなくなった日だって、確か泣かなかった。
なんなら、運悪く私の誕生日と被ったお葬式の日だってピクリともしなかったし、ヒーローがもういないことを自覚しなから、「私、今日17歳になったんだ」なんてどうでもよいことを考えていた。
今でも迷ってしまう。ヒーローがいなくなったとき、何歳だったの?と聞かれたら、16歳と答えればよいのか、17歳と答えたらよいのか。正確には17歳なんだろう。でも、私は16歳と答えたい。なぜなら、この世で最も強いと思っていたヒーローが静かに消えていく姿を、ゆっくりと見せられたのだから。
でも、やっぱり私は泣かなかった。不思議なくらい乾いていて、気がつけばヒーローがこの世からいなくなって数週間が経っていた。
当たり前のように街は騒がしく、決められたリズムを刻むように、規則正しく人や車が行き交っている。耳介を壊すような雑音ばかりの世界。そんな醜い魂のなかで、ある音だけが真っ直ぐに私の耳に届いた。
低く、誇り高く唸る、重いエンジン音。彼がよく乗っていた、モリワキのレーサーバイクと同じエンジン音だ。こびりついた匂いも、光沢のある車体の色もそっくりだった。
ひとつだけ違ったのは、そこに跨っていたのは、私の大好きな、大柄で声の低い、控えめな笑い方をする、ちょっとぶっきらぼうなあの人じゃなかった。
私はそのとき初めて、ひとりでは立っていられなくなるくらい、泣いた。
ヒーローを待っている私にとって「結婚」は少し歪んだ意味を持つ
そう、私は、無償の愛に飢えている。
優しさで包まれるような母の愛とも違う。父親からの愛というやつは、いうならば特別だ。
恐れすらときに感じさせる、厳しさを含んだ圧倒的な力を持ったヒーロー。たったひとり、自分が何をしても許してくれる、守ってくれる異性というのは、この世で父親だけなのだ。
彼の隣を歩くとき、私は無敵だった。いま何が起きてもこの人が守ってくれる。そう思えることは、子どもの私にとって、なによりの幸福だった。だから、私はいまもなお、あの幸福を忘れられない。
私はずっと、ヒーローを待っている。
私にとって、結婚とは、きっと少し歪んだ意味を持っている。だから彼は私を拒んだのかもしれない。なんて、きっと少し考えすぎだろう。
エンジン音が聞こえる。空に響いて消える、獣の咆哮のように魂が宿っている。