あまりにも息苦しい今年の夏には、はっきりとした理由がある
今年の夏は、あまりにも息苦しい。
それはもしかしたら、かれこれ世界中で1年以上も流行っている感染症の予防のため、四六時中マスクをつけているからかもしれないし、外に出て人と気軽に会うだとか、飲みに行くだとかの生活の憂さ晴らしがほとんど出来ずにいることも大きい要因なのかもしれない。
また、オリンピック・パラリンピックが自国で開催されたというにも関わらず、テレビ越しの観戦でさえも手放しで楽しめないのもあるかもしれない。
しかし、私の呼吸が健やかでないのは、もう一つはっきりとした理由があった。3年間付き合っていた恋人との別れが目前に迫っているのだ。
私はその時、ただでさえ苦しんでいた。私自身も今年の初めに例の感染症にかかり、味覚障害や気分の落ち込みがひどくなる後遺症が長引いていたのと(これは本当に辛い)、転職活動を始めたが軸が全く定まらず目途がつかないこと、また今年の夏に28歳の誕生日を迎えるという焦燥感、あまりにも圧倒的な人生の岐路に立ち尽くしていた(年齢については、若ければ全て良いという価値観を脱却しようともがいている最中にて、あしからず)。
精神的支えの彼に言われた「恋人としての好きがなくなったかも」
そのような時期にも、遠距離恋愛中の恋人は私の精神的支えとなっていた。
しかしある日、恋人から唐突に告げられた、「もう恋人としての好きが、なくなったかもしれない」という言葉。具体的に別れを告げられたわけでもない。
え、言われたほうは、どうしろと?
様々な感情が押し寄せてきた。まずは純粋に悲しい気持ち、ああもう私のこと好きじゃないんだと涙がボロボロでてきた。
次に腹立たしい気持ち。
「なぜ私がこんなに苦しんでる時にわざわざそんな話するの?勘弁してよね!」
私が将来に悩みだした途端逃げだしたくなったんだ、へえという少しの軽蔑する気持ち。
あとは、長く付き合っていたら名目上は恋人でも気持ちに変化があるのは当然だし、それを受け入れられないって、なんてスケールが小さいの。
映画「リリーのすべて」や「私はロランス」を見てみなさいよ。相手の性別にも囚われない、形が変わっても持続する愛を知らないの?となじりたくなる気持ちも。そしてほんの小さな割合である、理解する気持ち。
長く一緒にいれば必然のことを、わざわざ伝えてくるということは…
恋人との3年間の思い出は数えきれないし、過去にこんなに長く関係が続いた人もいない。一緒にいると居心地がよくて、楽しい。生来の人見知りである私は人と一緒にいるのは緊張してしまうのだが、その恋人の隣だと息がしやすかった。そんな人になかなか巡り合えないし、この人とは結婚をするかはわからないけど、パートナーとしてずっと一緒にいられるものだと思っていた。
それ故に、お互いにもう恋人としてのロマンチックな雰囲気が消えてしまっていることや、好きという感情が当初のものでないことには気づかないふりをしていた。そうなるのは長く一緒にいれば必然、そういうものだと思っていた。それをわざわざ相手に伝えることではないと思っていたのだ。
しかし、恋人はそれをわざわざ私に伝えた。その行為が意味することとは……。ああ苦しい。
周りの友達や知り合いがなぜ普通に結婚し家庭を作っていけるのかが、私は未だによくわからない。結婚願望が強いわけでもないけれど、皆普通の顔をして普通の人生を歩んでいるように見えて、たまに凄く羨ましくなる。
覚悟を決めて、自分が息のしやすい方向に向かわなくちゃならない
私はただ、この厳しい人生を手を取り合ってやり過ごしていけるパートナーを求めているだけなのに、それすらも結局うまくいかない。SNSを見ると友達が子育てをしているのに、私はまだ学生のような心持ちで、何ならあの頃よりずっと深刻に今後の人生や恋愛について悩んでいて、やりきれない気持ちになる。
孤独で仕方ないし、外には出歩けないし、恋人は去ってしまいそうだし、そんな状況の中でもまた一つ歳をとってしまったし。マスクの生活から抜け出せたとしても、この息苦しさから解放される時は来ないんじゃないかと思ってしまう。
恋人とはまだ別れ話をするには至っていないけれど(今の時期は恋人と会って別れ話することすらままならない、停滞する一方だ!)、私はしっかり覚悟を決めておいた方がよいかもしれない。恋人との関係だけでなくて、仕事や生活についても自分が息がしやすい方に向かっていかなくちゃならない。その恋人がいなくなっても、自分でたっぷり新鮮な酸素を取り込めるようにしておかないと。
ただ、もうしばらくは私の息苦しい夏は続きそうだなあと思う。強い日差しを家の中から眺めながら。