私がエッセイを書き始めたのは、仕事を休職して自分にはもう何もないと思っていた時のこと。出来ないことばかりに視点が向いていく中で、自分には何ができるのか、得意なことを探し始めた。

私は、小学生のときから作文が得意だった。夏休みには原稿用紙、何十枚も書いてライバルと枚数を競っていたりもした。
そこで磨いた文章力のおかげか、小学校高学年でのクラブ決めで1番人気のクラブに入ることが出来たのは、同学年で私とライバルの2人だけだった。

その頃から文章力には、お世話になっている。その後の学生生活でも、レポートなど幾度となく書いてきたが、評価をもらえたときには想いが届いたのだ、とやはり嬉しくなる。

私にはこれしかないと思うほどに、文章を書くことが好きだ。そこで休職中だった私は、夜な夜なこの文章力が役立つことはないかと調べる。すると、公募の募集がたくさんあることを知る。

その頃は、自分の気持ちなど理解されないだろう、と表現することから遠ざかっていたが、評価はされなくてもいい、とにかく自分の気持ちを綴ってみようと思った。そこで、初めて文章を投稿したのがこのサイトである。

今では、自分の気持ちを表現できる場所ともなっている。

私の言葉が人の感情を動かした。顔も知らない誰かに届いたのだ

初めて採用の連絡を頂いたときは、すごく嬉しかった。読んでくれただけで。自分にはなにもないと思っていた私が書いた文章を世に出してもいいと言ってくれているのだから、涙の出る思いだ。

初めての投稿は、恐縮ながら数人の知人には自分から連絡して読んでもらった。泣きそうになったと感想を頂くことが多かった。私にとって、最大級の褒め言葉だ。
さらに、SNSに感想を書いてくれた方々もいたのだ。
顔も知らない誰かに届いたのだと知ることが出来たこと、私にとって褒め言葉が綴られていたこと、この上なく嬉しかった。

言葉ひとつで人の感情を動かすことができるのだ。私は手紙で想いを伝えることを好むが、相手には「泣いた」とか「泣きそうになった」と、言われることが多い。私にとっては褒め言葉だ。それだけ感情を動かすことが出来たということなのだから。

言葉のかけ方や伝え方、使い方。人を救うのも、苦しめるもの人の言葉

いつだって、人を救うのは誰かのかける言葉だと思っている。また苦しめるのだって人の言葉だ。言葉のかけ方だったり、伝え方、使い方だったり、難しいことはたくさんある。

私が復職するためにお世話になっていたカウンセラーがいたのだが、
「あなたは、人が遠回しに言う言葉を理解しにくいのでは?きっと海外に行った方が楽なんじゃないか」
と言う。日本人特有のなぜか遠回しに伝えてくる表現方法のことだ。私はそれなりに理解はしているつもりだし、人の指す“それ”も雰囲気で伝わっている。

しかし、ここまで言われると自分は理解出来ていないのではないか、と思えてくる。たしかに直接的に伝えてくれた方が楽なのではないか、とまで思えてきた。そう思うだけで、この世は生きにくいのだ。

立ち止まって心と時間の余裕が出来てから、婉曲や比喩の表現での“それ”が指すものを理解する楽しさと表現の美しさを学ぶ。書いた人にしかその心は分からないときもあるが、想像する楽しみや解釈は人それぞれなのだ。歌詞などでそれらに触れるとふいに「美しい……」と思ってしまう。

今まで出会った言葉から語彙を選び、人の心を動かす力が宿す

言葉を伝えるということは、無限に方法があることで人それぞれ違う。そこが楽しいところでもある。自分だけの方法で、自分が今まで出会った言葉から語彙を選び、経験を使って伝える文章には、それだけ人の心を動かす力が宿るのではないかと思う。

今エッセイを書き続ける理由は、“誰か“に“何か“を伝えたいという一心だ。
こうして綴ったエッセイを何年後の自分が見たときに、どんな思いを伝えにくるのかも楽しみの一つだ。

万人に響かなくてもいい、こんな人もいるのだと知ってくれればいい、1人にでもメッセージが届けばいい。
そんな思いで泉のように次々と湧いてくる言葉を綴る深夜2時、この時間が何よりも幸せだ。