偶然「かがみよかがみ」を知り、今年の2月から投稿するようになった。
書くことで頭も心もすっきりする。テーマに沿って、自分の経験を振り返り、棚卸しする良い機会になった。

エッセイは時空を超えた文通と言いたいけど、実際は少し長い独り言

ときには書くために日記や写真を見直した。過去の自分からの手紙を受け取ったような気持ちになることがあった。
逆に未来の自分に手紙を送るような気持ちで文章を書くこともあった。時空を越えた文通と言えば、なんとなくかっこいい。けれど、実際は約1500文字の独り言なのだ。
つまり、あくまで自分のために書き始めたもので、特に最初の方は読まれることを全然意識していなかった。
「かがみよかがみ」に最初のエッセイが掲載されてから、友人たちに紹介した。誰かに読まれ、感想をもらうことで気付いたことがあった。

まず「共感したよ」という言葉をもらうことは純粋に嬉しい。共感されることを目的に書いているつもりはない。と言うのはかっこつけで、やっぱり共感してもらえると嬉しくなる。
傷つきやすいのに、あまのじゃくなわたし。歩んできた道、物事の捉え方は本当に人それぞれだ。だからこそ、共感してもらえたときは本当に嬉しい。

友人からの血の通った温かい言葉は、いつもわたしを励ましてくれる

気付けば共感だけには飽き足らず、別の褒め言葉も渇望するようになった。欲張りでわがままなわたし。
ある友人から「新しい発見があって面白い。自分の考えを押し付けないところがいい」と言われた。新しい発見という言葉が、自分にとって心地良かった。
そして、友人がくれた超長文の感想を読んで、わたしも新しい発見をさせてもらった。長く付き合っている友人でも、まだまだ知らないことがたくさんあると気付いた。
例えば、恋愛観だったり、生理の捉え方だったり、大小さまざまな発見があった。文章を通して、普段の会話とは違った角度から、お互いを見つめられる、そんな気がした。

さらに励みになったのは、読んでくれた人自身が経験を振り返って、棚卸しすることだった。別の友人が『毎日働く生活から一転、毎日が休日生活に。自分に大人の宿題を出した』を繰り返し読んだと伝えてくれた。
休職の経験を綴ったエッセイで、わたし自身も気に入っているので、素直に嬉しかった。

彼女が今の仕事に対する想いや今までの選択の振り返りを書いてくれた。その後に続く「過去の自分の選択の積み重ねで今がある」という一文は、とても重みのある18文字だった。
「前向きな気持ちになった」という言葉には、救われた。血の通った温かい言葉はこれからも事あるごとにわたしを励ましてくれる、そんな気がする。

エッセイが友人に小さな影響を与えた。それは思いがけないギフト

自分の経験を振り返り、棚卸しするためにエッセイを書いてきた。そんなエッセイが友人に小さな影響を与えた。ほんのつかの間、水面に存在する波紋みたいなものかもしれない。本当に些細な影響力だけれど、新しい発見をもたらしたり、振り返りや棚卸しのきっかけになったりしている。わたしにとっては、思いがけないギフトだった。

自分のためにエッセイを書くスタンスに変わりはないけれど、読んでくれる人を意識するようになった。ちょっと欲を出して、自分のエッセイが読む人の小さな光になれたら良いなと思うようになった。
きっと夜空を飛ぶ蛍が放つ光のように儚い。でも、かすかな光が連なれば息を呑むような光景に出会えるかもしれない。だから、わたしは今日も書く。