以下の文章は、8月31日、「エッセイを書いたあと」に応募したくて紙に書いた未発表の文章を、一部変更した文章である。
だが悲しいかな、書いていたのが入院していて外部への通信制限を受けていた真っ最中だったため、応募期限にギリギリ間に合わなかった。
退院したのが期日の前日、タイピングが亀よりも遅い私には、ノートに書いた文をデジタルに打ち直すことを間に合わせることができなかったのだ。
それでも是非伝えたい内容だったし、せっかく途中までタイピングできたことでもあるし、内容を一部変更して投稿させていただくことにした。
長々と前置きをしてしまったが、以下からが本題である。

本格的に文章を書き始めたきっかけは、入院中にお医者様からのお勧め

書きたかったお題のエッセイも、昨日の日記も書いてしまって、もう書く事がないはずなのに、まだ何か書き足りない朝の6時。天気、晴れ。
何も書くことがないのに書きたいなんて、私は筆記中毒なのかもしれない。そんな中毒、本当に存在するのかどうか知らないけれど。

私が本格的に文章を書き始めたきっかけは、8月中旬に精神を病んで入院をしたとき、お医者様に勧めていだいたからである。
暇で暇で仕方なかったうえに、初めて「かがみよかがみ」さんに投稿したエッセイをお医者様に見せたところ、文章を褒めてもらえた嬉しさから、私は日記や読書感想文などを思いつく限りノートに記録した。その記録を始めてから私は、日に日に書くことが大好きになっていったし、ついには何かを書いていないと気が済まなくなった。

ちなみに「昨日の日記」と書いたのは、「今日の日記」の間違いでも、昨日サボった分を今書いた、という意味でもない。正真正銘、昨日の出来事の記録である。
古式に則り、私は朝に前日の日記を書くようにしているのだ。この様式を採用したのに、深い訳はない。なんとなくである。
ただ、「平安時代から鎌倉時代の貴族や武士は、前の日の出来事を翌朝日記に書いていた」というような説をどこかで読んで、「なるほど、ナイスな書き方だ! 嫌なことは寝たら忘れる私だから、昨日のことを朝書くようにしたら、嬉しかったことだけ記録できるぞ!」と思ったくらいである。気が向いたなら、是非一度試していただきたい。朝から前向きな気分になれて、効果は抜群である(私調べ)。

エッセイの採用は私の妄想でも、夢でもない現実に起こり驚いた

さて、エッセイを書いたあとのことである。
私は先日「人間味」についてのエッセイを書き、掲載していただいた『「人間味」のない人形になりたかった。感情は醜いと思っていたから』。初めて書いたエッセイであり、また何かに初めて応募した作品でもある。
そんな私の文章が、まさか本当に採用していただけるなんて思いもしなかった。世界中の人々から読んでもらえる環境に掲載していただけるなんて、なんという栄誉だろう。
驚いた。とても驚いた。どれくらい驚いたかというと、鮭が赤身魚ではなく白身魚だと知ったときと同じくらい驚いた。信じられなかった。
ちょうど採用通知のメッセージが入院中、お医者様と一緒にいたときに届いたので、もし居合わせたのがお医者様ではなかったら、
「夢じゃないか確認するために頬をつねらせろ」
と言って、強めに相手の頬をつねっていたかもしれない。
結局誰の頬もつねらなかったけれど、私の文章が採用されたのは本当だった。精神を病んだ私の妄想でも、夢でもない現実に起こったことだった。

この文章を書いている時点(ちなみに8月31日である)でエッセイの感想を聞いたのは、編集部の方からとお医者様からの、2件だけである。
どちらも、私の文章を好意的に見てくれた意見であった。とくにお医者様は
「あのサイトの中で、文章力だけ見れば飛び抜けている」
とまで褒めてくださった(うろ覚え。あるいは妄想の可能性も否めないけれど)。
なんにせよ、自分の書いた文章を認めてもらえたのだ。お世辞や嘘であっても、嬉しいことに変わりはない。

「なにもできない人間」じゃない。生きている、それだけで充分偉い 

退院後は「note」さんでも文章を書くようになり、よりたくさんの方々から文章を読んで、評価をいただけるようになった。それは、私にとって、とても良い影響をおよぼした。
自分に自信を持てるようになったのだ。
自分は、なにもできないと思っていた。何の特技もないし、資格だって持っていない。しかも、精神科に入院までしてしまった。
だけど、私には文章が書けたのだ。書けるのだ。
思いつきだったけれど、試しにエッセイを書いてみて、読んでもらって、自分にもできることがあるのだと気が付いた。幸せなことだと思う。

これを読んでくれているあなた。
あなたももしかすると、以前の私のように、「自分はなにもできない人間だ」と思っているかもしれない。
だけど大丈夫。実は気付いていないだけで、何かできることがあるかもしれない。なかったとしても、生きている、それだけで、充分偉いのだ。
そのままの自分をゆるして認めてほしい。少なくとも、あなたのことを、私は認める。今日よ生きていてえらい。息をして、しかも私の文章まで呼んでくれて、とてもえらい。私に「読んでもらえた」という喜びをくれてありがとう。

どうか「そんなことくらいで」と思わないでほしい。
私だって、考え方を変えれば「ちょっと文章が書けるくらいで調子に乗るな」ということになってしまう。それでは悲しすぎるから、ぜひ前向きに考えよう。「そんなこと」は「よいこと」なのだ。たとえちょっとしたことでも、すごいことなのだ。

だからみんな、少しでも、世界を好意的に見てみよう。そうしたら、世界も自分を好意的に見てくれるから。