エッセイは私にとってひとつの記憶であり、体験の結晶のようなものだ
エッセイを書いた後、書いたことを綺麗に忘れてしまう。
文章の仔細はもちろん、何のテーマに対して何を書いたのか、全て記憶から消し去られてしまう。
『かがみよかがみ』に今まで5回エッセイを掲載していただいたが、一度掲載された後、読み返すことはほとんどない。
エッセイは全て、私の個人的な体験と、思いについて書いたものだ。
記憶を書き出してひとつの形にすることで、私の身体からその体験が切り出され、互いに独立した存在となるような、そんな感触がある。
エッセイはひとつの記憶、体験の結晶のようなものだと思っている。
好きな小説の言葉を思い出す。抱えきれない思いを形に残すこと
小川洋子の『薬指の標本』という小説が好きだ。
主人公は標本室で事務員の仕事をしており、日々標本の作成・保管を依頼するお客さんに対応している。
この小説の標本室は、昆虫や植物などの一般的な標本を作る研究所のような場所ではなく、人々の思い出の品を標本にし、保管することを目的とした特別な場所だ。
この場所には、様々な依頼人が、標本にしてほしいものを持ち込んでくる。
別れた恋人から贈られた楽譜。愛鳥の骨。ビーカーに入った精液。両親と弟が亡くなった火災の跡地に生えた、3つのキノコ。
依頼人は品物を大切に抱えて標本室を訪れるが、不思議なことに、標本が完成した後、それを見に来る人はほとんどいないという。
依頼人は「標本にしてもらうと、とっても楽になるって聞いて……」と言いながら訪れる。
キノコを依頼した少女は、「燃えてなくなってしまったものを全部、キノコと一緒に封じ込めてもらいたいんです」と言葉を零す。
辛い経験をしたとき、幸福すぎて思い出すのが悲しくなるような経験をしたとき、消化できない何かが心の中に澱になっているとき。自分だけでは抱えきれない思いを、物に託して標本にする。
決して捨てることはできないが、身近に置いておくのは苦しいような、そんな何かが、この世界のどこかに大切に保存されている。永遠に朽ちず、崩れず、完璧な姿で。
そう思うだけで、人は安らげるのではないだろうか。
見返したページ。美しい文章がひっそりと並ぶ様はまさに標本のようだ
私にとって、エッセイはそれに似ている。
なぜ、忘れてしまうのに書くのかと言われると、安らかに忘れることができるようになるから書くのだ、と言えるかもしれない。
生きていると、心には様々な思いや景色が降り積もっていく。それを標本にしたら、きっとスノードームのようになるだろう。透明な球体の中にひとつの風景が閉じ込められ、永遠に色あせずに存在し続ける。
もし気が向くことがあったら手に取ればいい。逆さにするときらきらと雪が舞う。こんなに綺麗だったっけ、と思うかもしれないし、そもそも手に取ろうと思わないかもしれない。それでも、変わらずその風景はそこにある。
このエッセイを書くに当たって、本当に久しぶりに自分の記事一覧ページを見た。
色とりどりの美しい写真を戴いた文章がひっそりと並ぶ様を見て、やはり標本に似ている気がする、と思った。
私はこれからもエッセイを書くだろう。
忘れてしまうけれど。もしかしたら、忘れないかもしれないけれど。