小学生の頃、夏休みの宿題として出された読書感想文から、社会人になって提出した報告書まで、いろいろな文章を書いてきました。その中で「エッセイ」とはどれを指すのでしょうか。
辞書で調べたところを簡単にまとめると、自由に意見を述べた散文から与えられたテーマに沿った小論文まで、結構広い範囲をエッセイと呼ぶそうです。それを知ったとき、私が一番上手く書けたのはあれだ、というエッセイを思い出しました。しかしそれは、私の手元には残っていないのです。

これまでで一番うまく書けたのは、就職活動で書いたエッセイ

私がそのエッセイを書いたのは、就職活動中、とあるメーカーの二次選考の最中でした。与えられた原稿用紙の枚数は覚えていません。字数に規定があったかも定かではありません。「学生時代の忘れられない経験」だとか「一番尊敬している人」だとか、わりと自由のきくテーマの中から選択し、それに対する考えを述べる形式だったと思います。
覚えているのは、「最近読んだ本」というようなテーマを選び、本多孝好著「dele」の読書体験を端緒に書き始めたことです。「dele」は、亡くなった人が生前依頼したパソコン内の電子データなどを消去する仕事をする人達のお話です。物語の中で登場人物は、ときに死の解釈やデータの処理について衝突していました。
私は、数多のSNSが発達し複数のアカウントが乱立するこの時代に、個人の死はどこまでの範囲を指すのか、という視点で考えを書きました。家族も友達も知らないSNSアカウントを持つ人は少なくないでしょう。ではその人が死んだとき、放置されたそのアカウントは死ぬのか、という点についてです。

辛い就職活動。とにかく面接が苦痛で途方に暮れていた

アカウントが存在する限りSNSで繋がっている人にとっては生者かもしれないし、誰に見られることも反応されることもなくなれば死ぬのかもしれません。まあ、内容は関係ないのです。その頃の私は、正直に言って就活に疲れていました。優秀な同期が内定を貰ったり大手企業の最終選考に進んだりする中、いくつもの選考で通過と落選を繰り返し、一進一退の就活に神経を摩耗させていました。
企業について調べ、履歴書を書くのは良いのです。とにかく面接が苦痛でした。口角を上げ、面接官を向いて話すこと。自身の長所をアピールし、短所をいかにカバーしてきたかを語ること。会話の整合性を失くしたり嘘を言ってしまったりするようなことこそなくとも、初対面の人と短時間で交わす会話の難しさに途方に暮れていました。

面接の反動で吐き出すように綴った文章。清々しい満足感を得た

けれど文章は違いました。話し言葉と書き言葉は違います。明瞭さを求められるため口頭面接では避けがちな同音異義語も贅沢に使えるし、表情を作ることにも背筋を伸ばすことにも気を取られることなく自分の考えを表せました。
テーマとしては、面接で聞かれる質問としてありきたりなものだったでしょう。しかし表現方法として文章を指定され、こんなにも違うのかと驚きました。面接でできないことの反動を吐き出すようにして綴ったその文章に、清々しい満足感を得たことを今でもはっきりと覚えています。
選考にはグループディスカッションもありましたし、内容に関するフィードバックはありませんでした。しかしその選考を通過できたのは、あの「エッセイ」のおかげだと今でも思っています。

就職活動の時のエッセイを超えるものは、未だに書けていない

結局他の会社にご縁があってその会社の選考は辞退してしまったのですが、私にとっての「エッセイ」の起点は間違いなくあれでした。誰が読むかも、どう反応されるかもわからない文章を、自分の考えを拠り所に書き上げること。あのとき、それがこの上なく上手くできたと感じたのです。
未だにあれを超えるエッセイを書けたことはないと思いますが、それが悔しいなどとは思いません。自分が書くエッセイは自身や周囲の変化に応じて変化していき、それが楽しみですらあります。
加えて本当のところを言ってしまうと、あれが本当に自画自賛できるほどのものだったかはわからないのです。返却されなかったので、確認することはできません。
それに、手元にないのが寂しいようにも感じますが、一方で、もう二度と書くことも読むこともできないからこそ、辛い就職活動の中の良い思い出として心の糧にできているのかもしれませんから。