エッセイを書くということは、思い出の消化と保存。
そしてエッセイを書いたあとに待つのは、思い出の熟成と発酵、そして新たな自分との出逢いだと思う。
大切な時間の空気と温度をジャムのように、瓶に詰められたらいいのに
甘くて美味しい幸せや、楽しくて仕方のない喜びの思い出たち、それはある程度の時間が経てば、どうしてもぼやけてしまう。記憶の温度は、儚く消えてしまう。しゃぼん玉のように、ぱっとは消えないが、ふわふわの綿毛のように少しずつ飛んでいってしまう。誰だって、甘い幸せは鮮明に、そして細やかに覚えていたい。
夜の海辺に好きな人と手を繋いで寝そべり、見上げた満点の星空と耳に入ってくる優しい風の音。深夜、電話の向こうで彼がぽろっとこぼしたいつもは聞けない言葉。その時のいつもよりトーンの低い声。酔った勢いで近くなった距離で感じた体温。
わたあめのような時間の空気と温度を、熱いうちに、ジャムのように、瓶に詰められたらいいのに、そんな風に思う。
こんなご時世だからなのかな。寂しがり屋だからなのかな。そうなのかもしれない。でもそんな時に、記憶を書くということ、それがエッセイだとわたしは思う。
エッセイを書いたあと、もう一度読み返すと、ジャムの瓶の蓋を開けて、いい匂いを嗅いでいるような気分になる。でも何度か開けるうちに、匂いが変わっている気がする。思い出も熟成されて発酵されて、過去の自分の一部になっていく。寂しさはそこから来ているのかもしれない。
エッセイは固定概念に囚われずに想いを伝えられ、何にも邪魔されない
エッセイという括りはこの時代、固定概念に囚われずに想いを伝えられる、何にも邪魔をされないものだと思う。自分のアイデンティティを確立するということは、いつの時代も難しい。それは誰だってそうだ。人間そんなに強くない。だからわたしたちが、より良く生きていくために、文字を書くことをしてきたのだと思う。
ここでもう一つ話をしたい。こんな風に自由でいいのだ。
わたしたちにはどんなに抗っても夜が来る。
世界にも心にも、そんな夜を生き抜くためにもエッセイがあるのだと思う。
心は不安定で脆くて、どうしようもない。
高校時代に作った親友しかフォロー許可をしていないツイッターの裏垢で、心の隙間からこぼれ落ちるような吐露をしても、いつからかあまり楽になれなくなった。
夜明けまで書き連ねたその儚くて黒い想いは、直接相手には届くことがないという虚しさに、歳をとって気づいてしまったからかもしれない。
それでも自分のなかだけではどうにも処理ができない気持ちとの折り合いをつけるために、エッセイがあると感じる。直接相手に届かないのはエッセイもそうだが、誰でも見ることのできる場所に発信するということに、わたし自身が思っていた以上の意味をここで感じている。
出逢ったこともない誰かの心には響いているかもしれない、たったそれだけのことが凄く魅力的だった。
思い出を愛するためにエッセイを、自分を見つめるためにかがみの前へ
エッセイの定義は自由だ。これはエッセイだ、いいや、これはエッセイじゃない、世間はほっといてくれないけど、出る杭は伸ばしていいのがエッセイだと思う。大それたことを言っても、等身大のことを言っても、自分という存在の提示をできる場所は、守っていくべきだ。
心の中の自分を大切にすることの、大切さに気づいた時、優しい気持ちになれた気がした。
何が言いたいのか分からなくなるのも、それでも、全部認めてあげて書いていきたい。結局最後には自分以外の誰にも届かなかったとしても、それを書いたことによって得た何か幸福感に近いものが、この先を生きていくわたしを支えてくれていると、信じることって素敵だ。
わたしはこれからも生きること、そして思い出を愛するために、エッセイを書き、自分を見つめるために、かがみの前に座ろうと思う。