かがみよかがみにエッセイを応募し、掲載が決まるといつも私がしていることがある。それは、友達に送って読んでもらい、なんでもいいので感想を送ってもらうことだ。
普通に生活していたら、あまりこういう機会はない。自分の発信したものに対して何か意見をもらうこと。せいぜい、友達と会った時に自分の話をして、それに対してどう思うか聞くくらいだ。それも、このコロナ禍で多くはない。

友達からの「すごいね」という言葉が嬉しい。感想を読むのも楽しい

初めて掲載が決まったその時から、友達に送ろうと決めていた。それは掲載が嬉しくて、という報告の意味もあるが、それ以上に自分の書いた文章に対して他の人がどう思うのかということへの興味があった。
また、ずば抜けた文才はないが、それでもそのあたりを歩いている人よりは少しは文章を書くのが上手いはずだ、という自負もあり、それも確かめたかった。自分で言うのもなんだが。
そして、初めて掲載されたエッセイのURLを友達に送った。少し緊張した。自分の文章を読まれることなど、なかなかないからだ。学生の時の卒業文集とか、誕生日の友達への手紙、そんな時くらいしか文章なんて書かないし、読まれない。
友達に送ると、「すごいね」と言ってくれたし、感想をくれた。大人になればなるほど、すごいという言葉から遠ざかるような気がする。褒められることもあまりなくなるから純粋に嬉しい。感想を読むのも楽しかった。私が自分の経験に対して何か感じたことがあるように、友達もまた私の文章を読んで感じることがあるからだ。

同じ文章を送っても、人それぞれ感想が違くて面白い

だが、それ以前に、そもそもありがたかった。そこまで長くないエッセイとはいえ、読むのに大体5分くらいはかかる。つまり、相手の時間をもらっているのだ。何分であろうが、それは相手が好きに使えた時間。それを使って読んでくれ、わざわざ感想を文章にして送ってくれる。手間をいとわず、好意でやってくれている。つくづく自分は周りに恵まれている、と感じる。
肝心の感想も興味深い。全員に同じ文章を送っているのに、感想が違うからだ。好きな表現とか、なぜそれが好きなのか、とか。違う人間だから違う感想を抱くのは正直当たり前のことだけれど、それを目の当たりにしてなんだか面白く感じた。
感想を読むことで、こういう考え方があるんだ、ということも学べた。エッセイというのは、自分の経験を元に意見や考えを書くものだが、同じ経験をしても私のような考え方はしなかっただろう、と友達から言われることもある。そうか、と気づく。自分で経験し、感じているから、自分からの見え方しか知らないのだ。

「書いてよかったな」。思わぬ読者の存在とその応援に嬉しくなる

違う意見によって、物事は切り取り方で違う見え方や側面を持つことが、実感として理解出来る。そしてそれを知ることは、次にエッセイを書く時にきっと役に立つ。違う物の見方を知って、さらに文章に深みが出る。表現の幅が広がる。
感想を読み終えると、全てパソコンに入力する。たまに読み返すと幸せな気持ちになる。声に出すと、その言葉達が耳からも音声として入ってきてさらに幸せな気持ちになる。
たまにYoutuberの人がファンに対して、コメントをくれることに感謝しているということを言う時がある。そうなのかな、なんて当時は思っていたけれど、今はわかる。エッセイを友達に読んでもらうようになったからだ。ただ趣味で書いているだけだから、送る友達も数人だけだが、それでも感想の一つ一つがありがたい。書いてよかったな、と思える。元々、文章を書くのが好きだから投稿しただけだったが、また読みたい、と友達に言われると思わぬ読者の存在とその応援に嬉しくなる。
いつまで私がエッセイを書くかは、自分でも分からない。でも、読んでくれる人がいる限り、私はエッセイを書く。
言葉を、想いを、紡ぐ。そしてそれを、誰かの心に届ける。