もう二度とここには帰らない。
そう心に決めて、社会人1年目だった私は逃げるようにふるさとを離れた。
単刀直入に言うと、家庭環境が劣悪だった。
親に罵られ、暴言を浴びるのは日常茶飯事。殴られることも珍しくない。家から私の泣き叫ぶ声が聞こえたからだろうか、何度か警察が家に駆けつけたこともあった。勇気を出して学校の先生に相談したこともあった。
ところが、見事にみんな見て見ぬ振り。周りには、誰一人として私を助けてくれる人はいなかったのだ。
逃げるためのお金も場所もない私にとって、この現実は酷でしかない。私の居場所なんてどこにもなかった。家にいようと、学校にいようと、私を救ってくれる人は誰もいなかったから。
だから、ふるさとに良い思い出なんて、ほとんどない。思い出すのは苦しいことばかりだ。
会社でのパワハラと劣悪な家庭環境で心を病み、家を出る決心をした
社会人1年目の夏、私は心を病んだ。原因は会社でのパワハラ。そして、やはり家庭環境だった。
仕事から帰っても、家では気持ちが本当の意味で休まることはなく、ひたすら孤独に苛まれていた。心労と孤独はエスカレートし、気づけば死ぬことばかり考えていた。
そこで、私は精神科に通った。「適応障害」だった。
お医者さんには静かに言った、「実家を出た方がいい」と。このまま実家にいたら、体調が悪くなる一方だというのだ。
お医者さんの言うことは正しかった。適応障害が診断されて1ヶ月ほど実家で暮らし続けたが、ついに限界が来て私は自殺を試みてしまったのだ。ただでさえ精神が不安定だった私が、あの家で崩壊することなんて簡単なことだった。
ーーこのままではいけない......。
自殺を試みた後にふと冷静になった私は、やっと家を出る決心をした。
そこからは早かった。1週間以内に内見を済ませ、2週間後には実家を出ていた。
20数年過ごしたこの町も、景色も、何もかもが私を孤独にしたけれど、ここからから離れたら新しい人生が送られる気がした。
家を出て、ふるさとを離れた。これが生きるということだと実感した
ふるさとを離れた私は、水を得た魚のように毎日を生きていた。朝目覚めても、罵声を浴びることもなければ、誰かに殴られる心配もない。オシャレをしても嫌味は言われないし、お酒を飲むことも禁止されていない。
やっと、私は自分の人生を生きられる!これが生きるということだと実感した。
親とは1年ほど連絡を取らなかった。電話番号は着信拒否にし、LINEもブロック。とことん親を自分の中から排除した。
ところが、親元を離れて1年ほど経った頃、育った町が無性に懐かしくなった。
親は元気にしているのだろうか。
商店街はいつもと変わらないのだろうか。
またあの図書館と雑貨屋さんに行きたいな。
あのパン屋さんのカレーパンが食べたいな......。
どうしたものか。不覚にも、私はふるさとを懐かしんでいた。あんなに恨んでいたのに、思い出すと温かい気持ちになる。離れることで新たに芽生える感情もあるのだと知った。
時の流れに身を任せた私は、私は久しぶりに実家へ帰った。あんなに帰りたくないと思っていたはずなのに。
私の傷を癒してくれたふるさととの距離。過去と向き合える気がする
久しぶりに対面する両親は、昔のままだった。
機嫌が良い時は私を歓迎し、機嫌が悪い時は、昔と変わらず私を罵倒する。そう、本当に何も変わっていなかったのだ。
変わったのは、私だった。ふるさとを離れたことで、きちんと親と向き合おうとした。距離は、私の傷をほんの少し癒してくれたようだ。
正直、ふるさとへ帰ると未だに心が苦しくなる。
町のあちらこちらに、傷だらけの幼い私の記憶が今も残っている。あの道を見れば、泣きながら裸足で走っていた私が見えるし、交番の前を通れば、私を見放した警察官の顔を思い出す。
どんなにこの先幸せになろうと、過去の事実はなかったことにはできない。当然、嫌な記憶が消えることもないだろう。
でも、私は少しでも楽になりたいから、ふるさとと向き合うことにした。距離を置いたことでふるさとと、いや、過去や親と向き合おうしたように、この先も少しずつ過去と向き合える気がする。
まずは、私を孤独にしたふるさとを許したい。きっと大丈夫。この文章を書いているということは、ふるさとを許す一歩を着実に踏み出している証拠。
いつかきっと、私は楽になる。