新宿駅で降りて東口、西武新宿線に乗り換えるために小気味良い雑踏を掻き分けた。
その日の私たちは、所沢駅に用事を作っていた。誰がなんと言おうと明らかに夏でしかない、そうした日に、私たちは所沢へ新居の下見に向かった。

期待とは程遠い引越の手順。お互いの人生すら諦めてしまいそうだった

大抵の場合、引っ越しなんていうのはある程度の期待の内にするものだが、その時の私たちは違っていた。もう私たちには、これ以上一緒になって歩いていたって、何もないけれど離れがたくて。そうした三文芝居を続けていて。

頭のなかではすっかり分かりきっている終わった関係を、若くて熱い肌だけが離れることを許してくれない。呆然とした顔つきで、たるんでいく肌と取り戻せない風景を見ないようにして過ごしていた。

それでも、汚れきった和式便所や、風呂のない日々、コンロも買っていない為にいつだって塩味の強い外食で、お酒ばかり飲んでる暮らしからは脱するべきとは感じていた。せめて、二人の部屋の窓からの眺めくらいは変えなければ、お互いの人生すら諦めてしまいそうだったことを二人は知っていて。

二人で幸せに死んで行こうね、的な映画ロマンスはこの関係に存在しない。
呼吸さえなければこのままがいい、お腹が空かなければこのままがいい、現実さえなければこのままでいるのに。夢の心地から醒めさせられるような気分で、期待とは程遠い引越しの手順だった。

殆どの席が空いているのに、座ることを拒んだ彼を見ていた私は…

西武新宿駅から乗り込むと、昼過ぎの電車は空いていた。
殆どの席が空いているというのに、彼は座ることを拒んだ。それでも所沢駅は遠いから、私は一番端の席に腰を下ろして、彼はその席から少しだけ離れて立った。

離れた所から見る彼はあからさまに造形が良く、客体的であるかどうかを気にして生きているだけあって、伸ばした髪が胡散臭い夏の暑さで湿っていて、それはなんともヒジョウな猥褻だった。

ゆったりと線路を行く各駅停車が、彼のたよりない細長い体を揺らして、やってくる風景をただ単に眺めていて、細長いまつげに透けてる冷たい三白眼。その時に私はもう二度と、彼みたいじゃない男のことを愛することはできないだろうと分かってしまった。

別の人と別の街で暮らすことになった私。あの男は東北出身だった

彼を近くに呼んで、汗を含んだ髪をぐしゃぐしゃにこねくり回したり、今すぐ脱がせ事に及びたい気分を抑えて、私はそうしてようやく所沢駅にたどり着いたが、たどり着く頃には以前よりも彼を暴力的に恋しく感じている私が出来上がっていた。

もしも彼がそれを狙って、空いてる座席に座らない作戦をしたのだとしたらとんでもない男だと思う。当時もゼッタイに聞けなかったが、きっと今偶然に出会ったとしても、なぜ座らなかったのかは聞けないだろう。

所沢に住むことはなくなった。
結局私は、別の人と別の街で暮らすことになった。現実はいつも当たり前を突きつけてきて、それに圧倒されてしまう。やはり圧倒的に心地が良いから。

残ったのは、色気が拒絶そのものになってしまっている男しか愛せなくなったという私だけ。
あの男は東北出身だった。
常に冬を身にまとっているみたいな、いつも年末みたいな、でもクリスマスソングじゃない。