熱愛をした。文字通り、燃え上がるような恋だった。
いつから熱を持ち出したのか、どう熱が入っていったのかわからない。ついうっかりしていたのかもしれない。フライパンに火をつけたまま洗濯物を取り込みに行ってしまって、帰って来たころにはもう野菜も肉も焦げ付いてどうしようもなくなっていた。おいしく食べるためには、均等に火が通った段階でコンロから上げるべきだった。

燃え上がるという表現は、終わりが確約されている。これから灰になりますと言われているみたい。お熱いふたりは、いつかお熱くないふたりになる。厄介なのは、その当たり前を忘れさせてしまうのが熱愛の症状だということ。

「熱愛もサウナだったらいいのに」と、熱愛を終えた側の私は思った

健康志向な友達が、サウナは水風呂に入るためにあると言っていた。60度の熱風が吹く箱の中でじわじわ焼かれた後、ご褒美のように存在する泉。
キンキンの冷水に浸かりながら、目を閉じる。あの時間のため、毒ガスに侵されているように息苦しい空間(はじめて入った時そういう感想を持ち、周囲で涼しい顔をしている人たちはなにか特別な訓練でも受けているのかと思った)を耐えるのだと。

でも、よく考えてみてほしい。人間が心地よく生活できる温度は25度前後。そもそもわざわざ出向いて耐える必要がないんじゃないかと反論すると、いつまでもぬるま湯に浸かっているのかと問われてしまい黙る。

素直に言えばイエスだったけど、そう返せる雰囲気ではなかった。自分の弱さを認めるように思えて。たしかに、冷える時に味が染みるなんて言うよね。ヘラヘラとそんなことを返した。呆れた顔の友達。ブリ大根の気分だった。
行程は似ているのだから、熱愛もサウナだったらいいのに。これは、熱愛を終えた側の意見。せめてもの救いへの縋り。

熱愛はサウナみたいにコントロールできないから、気付いたら燃え殻

わたしは今、冷水に浸かって目を閉じている。けれども一向に整わない。簡単な話、熱愛はサウナではないから。大きく違うことで言うと、サウナは自らの意志で扉を開けるけれど、熱愛は知らぬ間に熱に晒されている。すごく意地悪だと思う。もしコントロールできるとしたら、わたしはその取っ手に近寄ることもない。上がったり下がったりして費やす体力を無駄だと思っている。

気付いたら燃え殻だった。
もう会えないと彼は言った。わたしは浜松町にいて、ちょうどライトアップされた東京タワーを見上げていた。
電話はわたしからかけた。東京タワーが見えるよ、綺麗だね。そんなことを伝えたいだけだった。

もう会えない。焦げ付いたわたしを、彼が引き剥がそうとしていた。どうして。なにも言わなかった。どうして、ではなかったから。

もう二度と熱愛をしたくない私は、今週末もサウナへ行く

ありがとう。楽しかった。元気でね。終わりを迎えたわたしたちが口に出していいのはこの3文だけだった。決まっていたから、ふたりともそうした。
焚き付けるものがなくなったのだから、再び燃え上がることはない。少なくとも、いまは。
電話が切れ、いい経験をしたとも、名残惜しいとも思った。

しばらくお揃いの指輪を見つめていた。赤や青のライトに照らされて、偽物のダイヤがキラキラ揺れた。
頭の中がぐるぐるする。上げそびれてしまった。焦げ付いてしまった。どのタイミングで上げればよかったんだろう。そんなこと。既に息苦しかったはずだ。だからか、少しの安堵もあった。もしかしたらあの時少し、整っていたのかもしれない。

もう二度と熱愛をしたくないわたしは、今週末もサウナへ行く。もしサウナに慣れていたらあのアップダウンの中でも冷静でいられたのかもしれないと思って。