8時、突き刺すようなアラームを認識して3秒で止める。すぐそばの物干し竿から、3日前と同じ服を身につける。寝癖直しをかけて眉を描き、車のエンジンをかける。毎日聞いている音楽を2曲歌って、職場の更衣室でようやく目が醒める。
8時28分、仕事が始まる。緊急案件の振り分けと引き継ぎ、昨日退勤後の変更点の確認、電話の1本もなく丸投げされた新しい案件、増えていく書類、話の通じない相手方関係者を2秒で黙らせる上司の白髪。理不尽の隙間に予定の仕事を全部詰め込む。
12時57分、ウイダーインゼリーを1本流し込んで、13時、緊急案件専属の午後業務が始まる。
17時15分、専属業務終了。午後一度も応えられなかった他フロアからの電話を聞きながら、今日の通常業務の続きが始まる。
20時、社内のコンビニが閉まる前に親子丼をかきこみ、22時、記録が終わって帰路につく。
夢の中でも仕事に追われ、それでも「いい子」で生きていた
仕事の一環のような気持ちでシャワーを浴びて寝落ちていたら、1時に問い合わせの電話で起こされる。反射的に出る声のなんと愛想のいいことだろう。夢の中でも仕事に追われ、自分がなんのために生きているのかわからなくなったとき、あの夜があったから、わたしはいま、自分の人生を生きている。
小さい頃から気を遣う子供だった。何かをもらうことは悪いこと、誰かに迷惑をかけるのは悪いこと、女は男をたてるものだ、役に立たなければ生きている価値はない。そうやって品行方正にいろんなことを頑張って、辺鄙な田舎から大都会の大学に進んだ。
酒以外には悪いことも覚えず、尊敬する先輩に勧められたところに就職して8ヶ月、気づいたら最後の食事も覚えていないような仕事漬けの日々だった。
仕事の限界を迎え、心と身体が耐えられなくなったとき、父が倒れた
いつも話を聞いてくれる友人がいた。趣味以外はなにも合わない人だった。家庭環境も仕事も思考回路もすべてが違った。
だから、わたしが悩んでいることに共感はしてくれなかった。でも、理解できないと言いながら、どんな話でも聞いてくれた。
仕事の限界を迎え、どうにも耐えられなくなったとき、父が倒れた。
休日出勤中に連絡を受けて病院に向かい、緊急手術が終わるのを待ち、全部終わったときには夜中の1時だった。翌日からも、仕事を減らしてもらうという選択肢はなかった。外注先はなくて、上司の半分は療養中で、なにより新規案件が絶対に減らない仕事だった。
それでも、「いい子」のわたしは、仕事が少しでも早く終わったらお見舞いに行った。病室についた瞬間に呼び出しの電話が鳴っても、5分だけでも、わたしは父に会いに行かなければならなかった。
友人に話をする体力も残っていなかった。断片的に浮かんでくる言葉や感情が、断片的なまま、誰にも届かずに蓄積されていった。ときおり同期が食事に誘ってくれたけれど、大体どちらかが職場から呼び出されてお開きになった。
彼の優しさと時間をもらった日から、わたしは「悪い子」になった
ある日、仕事が終わってスマホを開いたら、友人からメッセージが届いていた。
「今日行っていい?」
3時間前。もう終電はない。タクシーで来られる距離ではない。車も持っていない。考えるのも面倒で「いいよ」と返した。20分後、わたし以外の全員が寝静まったアパートに、インターホンの音が響いた。
「断られたらどうするつもりだったの」
「断らないでしょ」
そう言って、彼は真面目な顔のまま、わたしを抱きしめた。
その夜は呼び出しの電話はなかった。わたしは断片的な言葉をいくつか吐き出して、彼はただそれを聞いていた。それ以外になにもなかった。ふたりでソファーで寝落ちて、次の朝、彼はわたしと一緒に家を出て、2時間先の自宅へ帰っていった。
わたしは彼の気遣いと優しさと時間をもらって、言葉を受け止めてもらって、代わりに水の1杯さえも出さなかった。この日からわたしは「悪い子」になった。
そうしてようやく、自分のつらさの正体が、「自分が他人にしているほど、他人が自分を大切にしない」ことだったと気づいた。
あの日からもうすぐ2年。自分が大切にしたい人、自分のことを大切にしてくれる人、言い換えれば、人として尊重しあえる人とのつながりだけを大切にしようと決めて生きるこの世界は、幼い頃に思っていたよりずっと自由だ。
そしてもうひとつ。やっぱりわたしは、この仕事が好きだ。