あの夜があったから、生きている。なんて言うには大袈裟だが、自分の気持ちを楽にしてくれた夜があった。まだ15歳だった。中学生活というのは本当に過酷で、常に危険に晒されていた。
ぐさり、とどこから刺されるかわからないし、油断をすれば、足首を掴まれて穴に引きずり込まれる。一度落ちたら、這い上がるのは簡単ではない。
どうにかその日をやり過ごせても、明日は繰り返しやってくる。緊張が続いていた。家が安心できる場所だったらまだよかったのだが、私の場合はそうではなかった。家にいるのはもっと嫌だった。
小さな小さな箱のような私の世界にどんどん水が流れ込んでくる。私は沈まないように必死に手足を動かし、上のわずかな隙間から、浅い呼吸を繰り返していた。はやく大人になりたかった。

「何もかも嫌になって逃げたくなったら、夜の校庭で星を眺めてみろ」

あの夜は勝手にやってきたわけではなく、自分で迎えに行った。「何もかも嫌になって、逃げ出したくなったら、とりあえず夜の校庭で星でも眺めてみろ」。
学年主任の先生が集会の時に何かの話の流れで言ったのだ。自分が夜の校庭で空を見上げているのを想像した。一瞬、深い呼吸ができた気がした。行かなくては、と思った。
昼休み、屋上へと続く扉の前にある踊り場に座り込んで、夜の学校へ忍び込むことを考えていた。ふと、下から近づいてくる足音に気付いた。ここはめったに人が来ないはずなのに。体を固くしてて息をひそめる。
ぬっと下から顔を出したのは田嶋だった。全身から力が抜けた。「なんだよ、田嶋かあ……」。「なんだよってなんだよ」。田嶋は誰とでも上手くやっていけるタイプのクラスの男子だ。私とは全然違うけれど、何故か話すとしっくりくる。時と場所を選んで、するっと話しかけてくるので安心できる。
周りは私たちが会話をすることなんて知らないだろうし、そこが良かった。田嶋が言った。
「裏門からなら、結構簡単に入れそうなんだよ。夜の学校」。私が何を考えていたのかはお見通しのようだった。

「久しぶり」。夜中の待ち合わせ。意外な友だちに会った

その日の夜、お互いの家の中間地点で待ち合わせた。夜中、両親が寝たのを確認して、リビングの窓から家を抜け出した。玄関から出ると大きい音がするから、そうすることにした。
小走りで待ち合わせ場所に向かった。じっとりと暑さがまとわりつく、夏の始まりの夜だった。待ち合わせ場所には田嶋と、もうひとりいた。「……久しぶり」。そう言った三田ちゃんの声は少し掠れていた。久しぶりだったのは、会うこと自体ではない。毎日、部活で同じ空間にいるから。
でも久しぶりだった。最近の私は、空気だったから。三田ちゃんは、私の前に空気だった。その時は私も三田ちゃんを空気にしていた。そして部活が終わると、お互い家に帰るふりをして、こっそり会っていた。私と三田ちゃん、そしてたまに田嶋が加わった。夜が来るまで、何でもない時間を過ごした。
そのうち次の空気が私になった。空気になった私は、空気じゃなくなった三田ちゃんからのメールに、どうしても返事をすることができなかった。春が始まったばかりの頃だった。
田嶋がなんで三田ちゃんを呼んだのかは聞かなかった。三田ちゃんはお母さんと2人で暮らしている。「ママ、今日は夜勤だったから、ちょうどよかった」と、困ったように笑った。

3人で夜中の学校へ。たわいのない話。息を切らしながら笑った

3人でたわいもない話をしながら学校まで歩いた。以前に戻ったようだった。なんだかくすぐったくて、泣きそうだった。こんな夜中に外にいるということを思い出す。不安と、高揚感がぐるぐる混ざり始めた。裏門の脇にあるブロック塀は簡単に乗り越えられた。警報が鳴るんじゃないかと、ビクビクしていたが鳴らなかった。学校のセキュリティはどうなっているのだろう。
いつも過ごしてるはずの学校は、全然知らない場所のようで、少し怖かった。足音がやけに響いて、そわそわした。体育館脇の小道に差し掛かった時、先頭の田嶋が足を止めた。
「ここ、上に行けそうじゃね」。体育館の壁にくっついている雨どいに手をかけ、視線を上にのばしながら言う。運動神経は悪くない方だけれど、中々大変そうだと思った。体育館の屋根の上にいる自分を想像してみた。さっきより深い呼吸ができる気がした。「登ってみたい」と私が言うと、「よし」と田嶋が雨どいに手をかけた。軽々と上まで行き、屋根の上から私と三田ちゃんを見下ろす。そして手を伸ばして言った。
「引き上げるから、登ってこい!」壁と雨どいの繋ぎに、足を引っ掛ける。手に力を込める。もう一個上の繋ぎに足をかける。腕が壁に擦れた。ヒリヒリする。手を伸ばして田嶋の手を掴む、と同時にグイッと引き上げられた。あ、膝も擦れた。続けて三田ちゃんを同じように2人で引き上げた。3人で、息を切らしながら笑った。服がぺったりと肌に貼り付いている。

問題を抱えながらの学校生活。あの夜のことが私の呼吸を楽にした。

ああ私、今、夜の学校にいるんだ。しかも体育館の屋根の上に。すごいや。胸いっぱい空気を吸い込んだ。それから、3人で並んで空を見上げた。都心というにも田舎というにもしっくりこない、なんとも言い難い私たちの街の空。星がちらちらと見えた。
屋根の上では、それぞれが何かを考えていた。でも繋がっている気がした。触れそうで触れない私たちの隙間を、しんとした時間が流れていった。特別な夜だった。田嶋にも三田ちゃんにも色々あるんだろう。私にも色々ある。
何も言わなかったし、聞かなかった。それでいいと思った。ずいぶんと呼吸が楽になっていた。
あの夜のことは、あの夜以降、誰とも話していない。あとの2人もそうなんじゃないかと思う。あの夜は、あの夜だけのものだった。話してしまったら色褪せてしまうような、そんな気がした。
学校生活はその後も多くの問題を抱えながら続いたが、片隅にあるあの夜のことが、確実に私の呼吸を楽にしていた。卒業してから2人には会っていない。けれど、あの夜のことは、きっと2人も覚えている。そんな気がしている。