試着室で思い出したら本気の恋だと思う、という小説がある。
特別なワンピースを着るだけで、背筋が伸びて、ちょっとは綺麗になった気がする。仕立てのいいスーツを着ている人は仕事ができるように見えるし、人としての好感度も高くなる。洋服は、身体のレベルを引っ張り上げる記号になる。特に、気に入っている洋服だとなおさら。
スペインのマーケットで見つけたシャツは「私らしい服」だった
久しぶりに袖を通したシャツがある。2年前、スペインのマーケットで、1ユーロか2ユーロで買った逸材。深めの青に、渋い赤や緑で模様が描いてあるシャツは、着心地がいい上に、シルエットがゆったりしているから、秋でも着回しができて重宝した。
たしか一目惚れだった気がする。私らしい服だ、と感じたというよりは、こういう柄のシャツを着こなせるような人になりたい、という願望も混ざっていた。
それからの1年は、気に入って随分着ていたのを覚えている。着心地が良いだけじゃなくて、スペインでの友達との思い出が蘇ることとか、そもそもそのシャツがスペインの街角で見つかった、という事実までもが身体を繕って、一つの「スタイル」になるみたいで華やかだ。
買った時の逸話やイメージまで含めて私に馴染んでいくシャツは自慢の一品になった。
これが私、と思えるシャツ、だったはずだけど。
2021年の夏になった。クローゼットで眠っていたシャツを引っ張り出す。社会人になって好きな服を着るチャンスが極端に少なくなった今年、休みの日に着てみると、なんだか思っている雰囲気と違う。
顔が太ったから?疲れて顔つきが変わってるとか?
一昨年の夏によくセットで着ていたジーンズとヒールを合わせても、しっくりこない。違和感を抱えたまま、仕方ないから最近なんの洋服を着ていたっけ、と思い返すと、オフィスカジュアルのみ。
毎日着る服は「自分」を表現するものではなく「仕事用」になった
去年の夏に、私にとっての洋服は「スタイルを体現するもの」とか楽しむものではなくなって、単に「女性らしい、とかは無視してカジュアルに心地良く着るもの」へと変遷していた。
加えて、今年、毎日着る洋服は「仕事用」というレッテルが貼られているからか、いくら私服っぽくてもあまり心踊らない。その上、今までは着てこなかったオフィス・カジュアルを上手い具合に着こなさなくてはいけない。
せっかくなら、少しでも「仕事ができる同僚」に見えていてほしい。
どうにも自分の好きなイメージを纏えず、オフィスカジュアルと聞くたびに身体が縮こまる。
私にとってファッションの優先順位が下がっていたから、あの大事なシャツも「微妙に似合わない」になってしまったのだろうか。それとも、新しいタイプの、無地や抑えた色ばかり着ていたせいで、身体や顔の輪郭までぼやけてしまったのだろうか。私はちょっと前まで、柄ものと原色が似合う顔立ちだったはずなのに。
そういう身体から滲み出る向き不向きは、なかなか変えられるものではない。
いま職場に着て行っているものも好きだけど、ちょっと着こなしのリハビリをしたいな、と少し残念な気持ちで新しい服たちを見る。話す言葉があなたを作る、とも言われるように、着る服もその人の内面をも規定していく。
そのせいなのか、だんだん思考が味気なくなっていく。私が信頼していた小説や絵画の世界への感覚が鈍くなり、その代わりに実務的で直角的な、「ビジネス思考」が埋め込まれる。
新しい環境にいい刺激をもらっているとは言え、これは正しい選択だったのか、と思わずに1ヶ月過ごせればいいほうだ。
またいつか、纏っていることで呼吸がしやすくなる洋服に出会いたい
新しい洋服と共に「社会人」としてのスキルを蓄えていく自分は、おぼつかない足取りでも、充実した日々を過ごしている。
それでも、スペインで買ったあのシャツを着れる自分も懐かしい。まだ諦めきれない。きっといつか元どおりになるよ、と何度も心の中で繰り返すけど、以前の私に戻ることが本当に正しいことなのかも、わからない。
また身体がのびのびと、纏っていることで呼吸がしやすくなるような洋服に出会いたいし、そういう服を着て生活したい。
そんな時は、立ち止まって、いまの私がどんな洋服にときめくのかを確かめる。
私の考え方は、どう洋服に反映されてきたのか。洋服は、どのように私の思考を止まらせたり、推し進めたりしてきたのか。
人生がある程度進んだら、また自分のワードローブを思い返して見るのも楽しいかもしれない。