「学校の制服、卒業しても取っておこうと思う。何かあったとき、売れるらしいし」
高校時代に友だちがそう言っていたのを、わたしは今でも覚えている。

友達が言った「何かあったとき制服は売れる」の対象は大人だった

そう言われて、ぱっと思い浮かんだのは、小学校のとき、中古の体操服や上履きなんかが並んで売られていた学校のバザーの風景だったが、それで「何かあったとき」の助けになるとは思えず、しばらく考えて、ああ、そういうことか、と友人の言っている意味を理解した。
また制服を着てくれる子どものために売るんじゃないんだ。
この子が言っている売る対象は、「大人」だ。

今、振り返ると、制服はまとえるシェルターだった。自分で言うのも何だが、ずいぶん傷つきやすい十代を送ってきたわたしにとって、制服の、少しごわついているけれどもしっかりした布地は、自分を守ってくれる盾のようだった。
実際、制服はすごくいい生地を使っているんだろうなと思う。今持っている服と比べてみても、「持ち」が違うように思う。

中学時代のセーラー服や、高校時代のブレザーは、毎日洗えるものではなくて、汚れなんかがそれなりに染みついていたに違いないが、着ていて嫌な気持ちはしなかった。みんな同じ服を着ることに違和感はあったけれど、セーラー服やブレザー自体には嫌悪感はなかった。
むしろ、セーラー服の袖についた小さな留め具や、ブレザーの小さな胸ポケットなんかに、不思議な愛着を覚えていた。

制服を大人に売ることは、自分の性をモノとしてお金に換えるのと同じ

毎日着るものだからかもしれない。制服は自分の延長のように思えていた。
だからこそ、高校時代、友人が制服を売る話をしていたとき、わたしは、自分はきっと制服を売れないだろうと思った。それは、自分の一部を切り離すような痛ましい行為だと思った。

もし、制服にそれほど愛着がなかったとしても、わたしと同じように感じる人はいるんじゃないかと思う。制服を「大人」に売ってしまったとしたら、それは自分の性をモノとして、お金に換えてしまったのと同じことだと思うから。

同時に、友人の話は、わたしたちにはそうやって、性を商売の道具に使える資質があるんだよ、と自覚させるものでもあった。当時、わたしは理解したふりをして、話にあわせて何となく笑っていたけれど、中身は子どものままで、「大人」たちの世界に足を踏み入れるのを恐れていた。

女の子だからという言葉の向こうに、私ではない女性がいる気がした

高校を出て、自分が「女の子扱い」される機会が増えると戸惑った。バイトなんかで、「荷物が重たいから、女の子は運ばなくていいよ」と言われるとそれだけで、うわーっと高揚した。

「女の子扱い」と、中高の「女子」は違うものだった。「女子」はまだ、記号的だった。分厚さがなくて、単なる分類で済んでいた。けれど、「女の子扱い」には、女子にはない、ふわっとした質感があった。

すごくむずがゆくって、わたしは女の子扱いが落ち着かなかった。そのせいで、女の子扱いしてもらっても、「大丈夫です、持てます!」なんて言い張って、重たい荷物をわざわざ運んで見せたりした。
生物学的な分類以外に、オンナとして意味づけや価値づけがされるのが落ち着かなかった。「女の子だから」という言葉の向こうに、わたしではない誰か他の、偶像としての女性がいる気がしてしまうからだった。

社会人になって、学校時代の制服とはだいぶ縁遠くなった。もう制服を自分の延長だなんて感じることはなくなってしまった。
だけど、わたしは制服を売ることはしないし、できない。それはこれからも、恐らくそのままなのだろうと思う。