私は社会で生きていくのに多分向いている。
喧嘩もしない。人のやりたがらないことも意外とやれる。社会に慣れるのに多少時間はかかったけれど、慣れてしまえばいつまでも走っていられる。
なぜなら帰属意識が強いから。所属する集団が少しでも良いものになるように働くのが生きがいだから。
社会にとって都合の良い存在に自らなろうとする特異な人間は、ある意味重宝がられるので、私という存在はわりと肯定される。私もそんな自分を案外嫌わなかった。

人のことは多分好きだ。それでも私は人を幸せにはできないと思う

私は一人の人として生きていくのに多分向いていない。
人からの好意を受け取れない。人の感情が自分に向くのが耐えられない。自分の感情を人様に向けるなんてもっと耐えらない。
一人の人間としての私は、自分が可愛いだけのどうしようもなく自己中心的な人間だ。自信もなにもあったものじゃない。
人のことは多分好きだ。それでも私は人を幸せにはできないと思う。願わくば皆私の関係ないところで自分自身の幸せを手に入れてほしい。私はそれを少し遠くから喜びたいのだ。

社会とうまく付き合いながら、自分の人生を充実させる方法なんて、みんないつのまに学んだのだろうか。
高校の時は部活で人を取り持つことに心を割き、大学では個性的な仲間がいつでも帰って来れる場所を作ることに心を割いていた。
それがとても楽しかった。自分がどうなりたいかなんて考えたこともなかった。

帰属意識や責任感で縛り付けないと、私は一人で立っていられない

気がついたら周りの人は試行錯誤して人間関係を構築し、自分なりの人生を作ろうとしている。
あの時よく喧嘩をしていた二人は、今ではなんでも分かり合える仲だと言う。あの時二人を取り持っていた私は、今の私に何かを残せているだろうか。
「喧嘩をしない」ことが正解だと思っていたけれど、人生においてはどうやらそうとも言えないらしい。私はそれを学ばないまま、大人になってしまった。
私は周りを見て生きている自負があった。自分がいるおかげでバランスが取れる社会があると信じていた。でもそんなことはなかった。
私の方が周りに生かされている。帰属意識や責任感で縛り付けておかないと、私は一人で立っていられない。

今までの生き方を後悔はしていない。やりたくてやったことばかりだし、自分が選んできた生き方であることは間違いないから。
それでも、今、私は間違いなく自分の人生を他人事のように感じている。こうやって孤独を誤魔化しながら、時々誤魔化せなくなりながら、この先何十年と人生が続くことに絶望したりもする。

今まであまりにも人間関係における「正解」を選び続けてきてしまった

しかし、踏ん切りがつかない。今の自分を変える必要が本当にあるだろうか。
今まであまりにも人間関係における「正解」を選び続けてきてしまった。誰も傷つけないで自分も傷つかないことがどれほど楽か。
人を傷つけてまで何かを変える必要があるのだろうか。いっそのこと転機になるような挫折でもすれば良いのだろうか。
ただ、私は挫折してもそれを実感することはあまりできない。なにせ全てが他人事に感じるのだから。

ワークライフバランスやQOLなどと、社会と自分自身の人生の豊かさを両立していける時代に、自分の人生を大事にする踏ん切りがつけられない若者としてどう生きようか。
楽しく働けて、過労死できたら幸せかもしれないなあ。