社会人一年目の春。ふいに渡された桜の枝と彼の背中を見つめた

彼と会ったのは、社会人一年目の春だった。
私の部署を訪れた彼は、ぎこちない様子の私に「おー、新人さん?」と笑顔を見せた。
「普段はちがう席にいるけど、この部署も兼務してるからよろしくね」
“爽やか”を擬人化したら、こんな人になるんだろうな。
それが彼の第一印象だった。

数週間後の新人歓迎会。
皆に慕われている彼は、管理職だが飲み会の席ではいじられ役だった。
他の同僚から離婚歴あり、今はお子さんと離れて暮らしていることを暴露されていた。
正直、うろたえた。歩く“爽やか”にそんな過去があるとは……。

この話は彼の持ちネタらしく、開き直っていた。
「もうしばらくは再婚しない。子供のためにも」
お酒で顔を赤くしながら宣言する彼に、好感が持てた。

帰り、満開を迎えている桜を観に、皆で川沿いを歩いた。灯りに照らされた夜桜は、昼間と違う儚さがあった。
ふと、「はい、あげる」と彼から桜の枝を渡された。
私も周囲も、思わぬ行動にきょとんとした。

「これ、どうされたんですか?」
「取った!」
「折ったってことですか!?」
主任縁起悪いー!と野次が飛ぶなか、彼は鼻歌交じりに前を歩いていった。

どうして、私に?
桜の枝と彼の背中を見つめながら、心の中で淡い感情が芽生えていた。

彼が好きな映画を観ながら、勝手に口がにやけた

それ以降、顔を合わせると他愛もない雑談をするようになった。
社会人1年目の私が、彼と同じ仕事をする機会がなかったのが功を奏したのだろう。
話をしていくうちに、家が比較的近所だと分かった。飲み会が終わると、近所同士が集まって一緒に帰ることが恒例だったため、最後の2人になって、家の前まで送ってもらうことも度々あった。

「ねえねえ、あの課長かっこよくない?」
「えー、私は主任派かな」
「揺るがないねー!」
「まあね、私の“推し”だから」
同期と集まればそんな話で盛り上がった。私はきまって彼の名前をあげていた。
半分、冗談だった。

秋の終わり頃。
同期と居酒屋に入ると、偶然彼を含めた同僚達と会ったことがある。
こちらに気付いた女性先輩から「一緒に飲もうよー!」と誘われ、同期とグラスを片手にお邪魔した。

「見てー、主任ってばこんな可愛いカクテル飲んでるんだよ。女子力たかーい」
彼は冷やかしをさらりと流しながら、得意げに話した。
「これ、“テキーラ・サンライズ”って名前で、俺が好きな映画も“サンライズ”って入ってるからつい頼んじゃうんだよね」
彼の好きな映画って、どんな話なんだろう。
私はこっそりと、オレンジ色のカクテルを目に焼き付けた。

帰り道。いつものように、最後の2人になった。
「さっきお話されてた映画って、何というタイトルですか?」
「え、興味あるの?嬉しいなあ」
「24時間空いてるレンタルショップがあるので、この足で借りに行こうと思って」
「まじか!じゃあ俺も一緒に行こうかな、せっかくだし」
深夜、歳上の男性とレンタルショップでDVDを物色する日が来るなんて。
学生の頃にはなかった夜遊びを覚えたみたいで、胸が高鳴った。

映画は、旅行中に偶然出会った男女が惹かれ合い、滞在中一緒に過ごすという洋画だった。
作中の男性の台詞が、彼の言葉のように思えて、勝手に口がにやけた。
すぐに感想を伝えると、相変わらず爽やかな笑顔で喜んでくれた。

当時の恋人との恋愛相談。あの時、何て言ってほしかったんだろう…

当時、私は付き合っている恋人がいた。彼に一度だけ、恋愛相談をしたことがある。
それは忘年会の帰り道。夜風にあたりながら、2人で歩いているときだった。
「恋人と、考え方とか話が合わない気がして……」
彼はアドバイスしてくれたのだけど、はっきりと思い出せない。
私は、彼にどんな言葉を求めていたんだろうか?
すぐ濁して、別の話題に切り替えた。

近所の交差点に着くと、彼は私の住むマンションを眺めた。
「前から思ってたけど、意外と階数あるよね」
「6階建てですよー。私は503号室です」
「ってことは……あれ、電気付いてる?」
彼はひい、ふう、みい、とマンションを指差しながら数える。

しまった。今日は恋人が泊まりにきていることをすっかり忘れていた。
「あ、あれ?電気付けっぱなしで出てきちゃったみたいですね……」
乾いた笑いで誤魔化したが、彼には伝わったのだろう。
「そっか」と残して帰っていった。

今更、言えない。彼と過ごした時間を知ってしまったから

年が明けて、繁忙期を迎えた。飲み会も減った。
彼との会話の数が減り、少しずつ距離が遠くなっていった頃。
「ねえ、聞いた?」
「え、なになに」
ランチでカフェに入ったとき、同期は少しだけ辺りを確認してから、爆弾を投下してきた。

「主任、再婚されるんだって。職場内恋愛」
「え……」
「しかも相手は既婚者、お子さんもいるって」

声が出なかった。話によると、すでに同じ部屋に住んでいるらしい。
「ドラマみたいだよねー」
同期は呑気にたらこパスタを頬張った。

いっそのこと、遠くから眺めてるだけの方が幸せだったなんて、今更言えない。
川沿いの夜桜やオレンジ色のカクテル、ふわふわした気分で歩いた夜道を知ってしまったから。