この前、少し遠くまで散歩をした。その時に見かけた無人の八百屋で嗅いだ匂いに、小さい頃の夏の記憶をくすぐられた。
まず、匂い、匂いという単語にひとこと言わせてほしい。何かを嗅いだ時に「○○の匂いがする」と言うと、みんな笑う。香りって言ってよ、くさいみたいじゃん。大抵みんなそう言うのだ。
私は20数年この世で生きてきて学習したので、笑って、ごめん、香り、と言い直すのだが、ここで持つ違和感を完全に払拭したわけではない。いまだに、ざらりとした舌触りを口の中に感じながら笑っている。まあ、その舌触りにも、慣れかけているのだけれど。
何故、みんな匂いという言葉を嫌がるのだろうか?におう、という言葉にマイナスイメージがあるからだろうか?香りがかぐわしくて、匂いはくさいのだろうか?だとすると、私があの八百屋で嗅いだのは、匂いの方だ。
お父さんが唯一休みの土曜日にある、中学受験のための塾が大嫌い
あの匂いは、私の中では夏の、特に小学校高学年の頃の終わりかけの夏の匂いだ。八百屋独特の、特に果物も売っていて、なんならぬか漬けもプラスチックの網にのせて売っているような、小さな八百屋の匂い。
いい香り、というのではない、なんだかバナナのような、でもバナナだけではない、夏なのに少しひんやりとした匂い。
小学校高学年の時、私は中学受験のための塾に通っていた。塾は全然好きではなかった。正直に言うと大嫌いだった。友達もいなかったし、馬鹿みたいに怖い社会の先生もいた(嫌いすぎて、地図帳にあったその先生の名前の地名を鉛筆で塗りつぶしていた)。
そして私の塾が嫌いなもうひとつの大きな理由は、その塾に行く日が土曜日だということだった。
土曜日は、お父さんが休みの唯一の日だった。
だから、塾が終わってお迎えに来てくれるのはお父さんだった。
白くて無機質な塾の壁を見ながら待っていると、お父さんと弟が迎えに来る。あの時ほど心躍る瞬間はない。
車に乗り込んでからは、私は失われた土曜日を取り戻そうと必死になる
弟はお父さんと銭湯にいったり、あまり私に話したりはしないが、他にも色んな所へ行っていたんだと思う。ちゃんと聞いたことはないが、弟がゲームセンターでゲットしたであろう金貨のチョコなどを持っていると、私は羨ましさで泣きそうになってしまう。
車に乗り込んでからは、私は失われた土曜日を取り戻そうと必死になる。しかし、その頃にはおそらくお父さんも疲れていて、大抵、ラジオのパカパカ行進曲を聞きながら帰るだけになってしまう。
運がよければポテトチップスと三ツ矢サイダーを家の近くの酒屋で買ってもらって、さらに運がよければレンタルビデオ屋でクレヨンしんちゃんを借りてもらえるが、それだってすごく嬉しいことなのだが、失われた土曜日が返ってきたとは思えず、ひとさじの悔しさは残ってしまう。
そんな、数ある土曜日の中に、かがやかしい夏の、強い匂いを放っている土曜日がある。
匂いが強烈すぎて、細かいことは覚えていない。
あの八百屋の匂いを感じるたび、失われかけた夏の土曜日に戻る
家の近くか、塾の近くか、どこかの八百屋に、お父さんが塾の帰りに連れて行ってくれたんだと思う。薄暗い店内。あのバナナのような独特な匂い。
そこで、むき出しで売られているすもも。買ったそのすももを、お父さんに手渡されて、服の袖で少しゴシゴシ、と拭いただけで、そのまんま3人でかじりながら歩いた。水で洗わなくても怒る人はいない。アスファルトに汁が垂れて、黒く点々と跡がつく。
甘くて、周りを見渡すと夏で、夕暮れで、お父さんと弟がいて、私は満ち足りた気分を感じて笑ったんだと思う。
すももの味より、あの八百屋の匂いが、私の中には強く残っている。あの匂いのする八百屋に入ると、あのぱんっとした赤さのすももが脳内に蘇り、私はすぐにでもあの失われかけた夏の土曜日に戻ってしまう。
結局私は中学受験はしなかったし、お父さんはお母さんと離婚してもう家にはいなくて、私も家を出てひとり暮らしをしていて、あの時乗った車ももうなくて、弟ももうあの頃みたいな可愛げを失っている。何もかもが変わって、しかし、記憶はおぼろげながらも、ここに存在している。
いい匂いじゃなくったって、そこに連なる思い出が、かぐわしくないとは限らない。