桃とコンクリート、あの日の匂い。

習慣のなかったリップをつける冬のワケ

夕方の昇降口に私はいた。
開校から60年経った古い校舎の床は全面コンクリートで3月の気温がそれを冷やす。
冷えたコンクリートの匂い、私をまとう学校の匂い。

古びたスノコの上に座り、セーラー服のポケットからリップクリームを取り出す。
ただのリップクリームではない。
パッケージに今人気のアイドルが印刷されていて、学校中の女子たちがそれぞれの推しの香りの物を持っている。私のは桃の香り。
リップクリームなんて今までつける習慣がなかったのに、これはつけると少し勇気が湧くような、そんな気がして。
キャップを開け、匂いを嗅いでから口にやる。甘い桃の優しい香り。

座りこむ私に、すれ違う同級生たちは「彼を待っているのか」と冷やかしてきた。
私はマフラーに顔をうずめ「そうだよ」と返す。
「熱いね」なんて言われたけれどその言葉には返さなかった。

ひとめ惚れの彼とは付き合っていない。特別な友人だと感じていた

彼と私は付き合っているわけではない。
出会いは中学校の入学式の日、知らない人ばかりの教室で窓際の席に座る彼に目が惹かれた。何をしていた訳でもなく、ただそこにいる彼が気になって仕方なかった。きっと一目惚れだったと思う。

どちらからともなく話しかけ、仲良くなるのにそう時間はかからなかった。
学校の中では、移動教室も昼休みもいつも一緒にいて、帰宅後にはメールも毎晩していたけれど、それ以上はなく恋人とは言えない、そんな間柄。
周りからは「早く付き合いなよ」と言われ続けてきたけれど、私は彼と一緒にいたいだけだし、彼にとっての私は特別な友人であると感じていたからそれで十分だった。

もうすぐ二年生になる。クラス替えで彼とまた同じクラスになれるかどうかが不安で、最近はそのことばかり考えている。
三学期が終わろうとしている今日、授業の終わりに彼から突然「部活が終わるまで待っていて」と言われたのだ。
「一緒に帰ろう」と。

昇降口に座ったまま不安と嬉しさに揺れる数時間、私の答え

突然のことで驚いた。漠然と「一緒に帰る」とは一体どういうことなのか分からない。
とても嬉しいはずなのに戸惑う気持ちばかりが溢れてくる。何を話せばいいのか、歩くペースはどのくらいなのか、どの位置まで一緒に歩くのか、手は空けておくべきなのか、
このドキドキは嬉しさなのか不安からくるものなのか、何もかも分からないことだらけだ。
幸いにも待ち合わせまで時間はある。昇降口に一人、じっと座ったまま考えていた。

気がつけば日は沈み、節電中の校内は薄暗く、手はかじかんできた。外から風で揺れる木の音だけが聞こえる。
どのくらい時間が経ったのだろう、長い時間考えた気がするけれどやっぱりよく分からなかった。分からなかったけれど、このあと彼に会えることが嬉しくて、もう会った後のことはどうでもいいと思えた。
うまく振る舞える自信はないけれど早く会いたい。

すっかり体育座りが身にしみた頃、体育館側から足音が聞こえてきた。
気怠げに足を引きずるような、靴紐をゆるくした上靴で歩く独特な足音、彼の足音。

私、今どんな顔をしているかな。

リップクリームを塗り直し、大きく息を吸う。
桃とコンクリートの匂いが肺に広がる。