私は昔から姿勢を褒められる事が多い。
褒められた後は両親の影響かと聞かれるが、私は両親に姿勢について言われた事はなく、私自身が姿勢を正すことを心掛けているので両親は関係ない。
私を愛してくれた、賢くとても美しい叔祖母は特に姿勢が良かった
私が姿勢を正すように心掛けるのには、叔祖母の存在がとても大きい。
叔祖母は私が幼い頃に亡くなった祖母の代わりに、私の事を本当の孫のように愛してくれた人で、マナーはもちろん、女性として生きていく世渡り術や、海外旅行の話、私が幼い時の話、祖母の話、自分が見てきたもの、世界遺産や文化など、私が知らない事を沢山教えてくれた。
私は、私の知らない事を沢山教えてくれる彼女のことがとても大好きだった。
そんな叔祖母はとても賢く、同時にとても美しかった。
無理を言って来てもらった中学生の参観日では、「杉谷さんのお婆ちゃん本当に綺麗ね!」と沢山の人に言ってもらい、とても嬉しかったのを覚えている。
しかし、そんな彼女の賢さや美しさはもともとあったものではない。
賢くならざるを得ない状況で、自然と美しさに磨きが掛かったというのが正しい。
私が母から度々教えてもらった彼女の話は、とても羨ましいものではなかったし、だから彼女はこんなに賢く、美しいのかと納得してしまった。
そして、歳を重ねるごとに若い時とは違う美しさに磨きが掛かる彼女は、特に姿勢が良かった。
私はまだ彼女以上に姿勢が良く、美しく、ファッションにも自分のこだわりを持っている婦人を見たことがない。
叔祖母のように賢く美しく。姿勢を気を付けただけで空気が違った
そんな彼女を幼い頃から見て私は彼女のように賢く、美しくありたいと思い、自然と姿勢を気をつけるようになった。
姿勢を気をつけただけで空気が違ったのには驚いた。
身長が低いというだけで馬鹿にされていた私だが、姿勢を気をつけるだけで自分の気持ちがスッと軽くなり、馬鹿にされることが少なくなったし、馬鹿にされても気にしないようになった。
心だけは彼女の美しさに近づけたようでとても嬉しかった。
彼女もまた若くして病で亡くなってしまったが、葬式でも綺麗だと言われていて、彼女は本当に誰から見ても美しいのだと改めてわかり、それなら何故彼女がこんなに早くに亡くならなければならないのかと泣きそうだった。
暗い供花は彼女に相応しくないと思った私は、両親にとにかくカラフルな供花を用意したいと話した。
黄色くて明るい色の供花を彼女の顔の横に入れ、彼女は本当に綺麗だなと思った。
棺の中にいる彼女の頬に触れてみたが、冷たく、硬く、本当にもうこの世にはいないんだと分からされた。
両親や親戚の前で涙を流す事が嫌でその場では我慢したが、その反動か彼女を思い出すと今でも涙が出てくる。
私は姿勢を正す。死ぬ時に「賢く、美しい人だった」と思われるように
彼女がいなくなってしまった後、しばらく電話番号を消す事が出来なかった。
何度も何度も掛けようとして、やめてを繰り返し、一度だけかけた時には無機質な音声案内が流れた。
その後何とか気持ちを持ち直し、電話番号を消す事ができたが、もっと沢山話したかった、もっと沢山写真を撮りたかった、もっと沢山抱きしめてもらいたかったと、いろんな後悔が私を襲った。
反省はしても後悔はしないという座右の銘を掲げている私が後悔しているのは、ずっと彼女の事だけである。
彼女は最後の最後まで私を愛してくれたのに、私はきちんとそれを返せたように思えない。
今も彼女との思い出と想いとで溢れかえって涙が出てしまう。
きっと文章はぐちゃぐちゃだろう。
誰が見ても賢く、誰が見ても美しかった彼女。
私はまだまだ彼女に遠く及ばないが、私も死ぬ時に「賢く、美しい人だった」と誰かに思われるように努めたい。
彼女は私の憧れで、今でも大好きなのだ。
だから、私は姿勢を正す。
いつか、私が死んだ後、空のどこかで彼女に凄いじゃんと抱きしめてもらえるように。