私が初潮を迎えたのは小学校6年生のとき、数ヶ月に一度しか行かない、母方の祖母の家でのことだった。
トイレにサニタリーボックスはなく、私は困って母に相談した。母はわずかに驚いたあとに「そうかあ、おばあちゃんもう捨てちゃったんやなあ」と呟いた。意識して聞いていなければ聞こえなかっただろう、そんな小さな声だった。
結局、血がついたナプキンはトイレットペーパーでぐるぐる巻きにして、コンビニでジュースを買った袋に入れて持ち帰った。
祖母には言えなかった。なぜ、と問われてもうまく返せる自信は今でもない。
ただ何となく「傷つけてしまうかもしれない」と思ったのだ。母もそう思ったのか、今更聞くことはない。
子どもを生み、育て、幸せな家庭を築くことを私に望んでいた、美しい母だった。自身の母親に「女性の大きな機能の一つの終わり」が来てしまったことをどう捉えたのか。それを考えることもまた恐ろしかったのかもしれない。

祖母の質問に母が即座に答える。余計なことは話すなと言うように

その日の祖母はいつも通り明るく元気な人だったのに、私は気まずくてあまり会話をすることができなかった。
「どうしたの」
そうほがらかに尋ねた祖母に「ちょっとお腹痛いみたいなんよ」と即座に返したのは私ではなく、となりに座っていた母だった。
余計なことはしゃべるな、と言われたような心地がして、私はむず痒いような気持ちの悪いような身体の変化に逆らう術はなく、ただ黙って笑っていた。
そんな優しい祖母が亡くなったのは、私が中学生のときだった。身体を壊しがちになり、検査入院をすると癌だということが分かった。祖母が亡くなるまでの記憶はあまりない。きっとあまり会っていなかったからだと思う。
幼いときから母方の親戚から嫌われていた私は、祖母のお見舞いに行くことすら、あまり良い顔をされていなかった。
祖母は貧乏ではあったが、気立てがよく、みんなから好かれていた人だった。だからこそ、彼女の死が近づく度に親戚たちが情緒不安定になっていっていたのだろう。
今考えれば分かる。それでも、28になった今でも、あの冷たく遠ざけられた時間は心に爪痕を残している。

お見舞いに行った日、祖母はくちゃくちゃのお札とお金を私に手渡した

私は母に連れられて、創立記念日で学校が休みの平日の、祖母以外誰もいない真昼間にお見舞いに行った。祖母は私が来たことを大層喜んでいた。
そうして、弱々しい手でチラシにくるまれた何かを私に手渡した。開くとそこには、くちゃくちゃの千円札と、ぴかぴかの五百円玉が一つずつ入っていた。
人工呼吸器をつけていた祖母は上手くしゃべれず、私の手を取ってにこにこするだけだった。時計の針の音と、看護師さんの「いつもお見舞いたくさんで良いわねえ」という声だけが白い壁に反射して、私が普段見ている景色とは、まるで違うもののように感じた。
祖母にバイバイと言って母の車に乗り込んだとき、母がこう言った。
「おばあちゃんらしいこと何もしてあげられんかったし、親戚の集まりで辛そうにしてても助けてあげられなかったから、あんたにずっと申し訳なかったみたいよ。せめてあんたにお小遣いあげたいって言ってたから、受け取ってくれて嬉しかったと思うわ。ありがとうね」
まさかお金をもらって「ありがとう」と言われる日が来るとは思っておらず、理解ができなかった。
知っていたなら助けてよ、とは思わなかった。祖母にだって今まで築いてきた関係があるのだ。そう安々と周りを叱って、たくさんいる中の孫一人の為に、自分の立場を悪くできるはずはない。

祖母を傷つけるかもという建前で蓋をした言葉を、言えばよかった

私が恥じ、苦しんだのはそんな親戚たちに阻まれて、愛してくれた祖母に会いに行くのを「嫌だ」と思っていた自分だった。
私に初潮が来たことだって、きっと祖母は身体をいたわったり、話してくれて嬉しいと思ってくれたりしたことだろう。なのに、傷つけてしまうかもしれないという建前で、私は言葉に蓋をした。
言えばよかった、言えばよかった、言えばよかった。
頭の中でおまじないを唱えるかのように三度くり返した。届かないことは当然分かっていた。
何でも話せる家族でありたかった。親戚のことも、母のことも怖くて、祖母だけが聖母のように思えた。そんな祖母がいなくなってしまうことが途端に怖くなった。
祖母のお葬式で涙一つ流せなかったのに、私はこの日、よれたチラシで作られた、たった千五百円が入った袋を握りしめて、後部座席で母に知られないように静かに泣いた。
天気の良い真昼間に、生理用品を捨てていると思い出すこの記憶の一つ一つが、私にとって痛いものでも、忘れる気はさらさらないのだ。
そう、母が私を生んだ年齢を超えて、また独り身の自身を省みて思う。