久々に泣いたし、「感動した」という言葉を素直に使った。

祖父母を引き取る、介護をするという話は、どこで聞いても暗く汚いもののように思っていた。老人を引き取ることは面倒ごとを引き受けること、自分がそう思っていたので、老いた人間を荷物のように扱っている自分の嫌悪も同時にあった。ただ、それは他の人の話で、自分の家族にはまったく縁のない話だと思っていた。

父方の祖母を「いずれ預かることを決めた」と母が話した

私は、確かに話を聞いた次の日に誕生日を迎え、成人の初心者からベテランの道を辿ることになっている。つまり遠い話もどんどん近く、時はずっと流れて流れて色んなことが現実となって、今後私の前に出てくるのだろう。今回はそのうちのひとつで、あくまで序盤なのだ。

母親は、私との会話の途中で、ふと思い出し何のこともなく、私の父方の祖母をいずれ預かることを決めたと話した。私は泣いた。

父親は4人兄弟のうちの三男だ。三男の父は、長男次男、末の弟に比べて私の祖父母に目をかけられることが少なかったのではと推測している。時代性と田舎の風習から、長子、それに続き次男と上から優遇された。末っ子はかわいがられると仮定する。次男から少し歳の離れた三男の父まで、親の配慮は行き届いたのだろうか。

お下がりのものは、3度目のオーナーに辿り着くまでには既に寂れており、その後の末っ子は新しいものを買ってもらうことが多かったと聞いたことがある。古い家を探索した時、父親が単独で撮られた写真は、1枚のみだった。

ど田舎の貧乏暮らし、嫁いできた東京の美大出身の祖母の渾身の努力と自尊心によって、現在4人の息子は都会で就職している。

4人兄弟のうちの三男である父と、超パワフルで存在感がある母

小さい頃の私にとって、山に囲まれ地平線の見えない田舎の古い家は、古くて、カビ臭くて、潔癖で、線を越えると叱責されるような空間だった。実際には、祖母はいつも私たち孫を歓迎し、叱責や厳しさとは縁遠いはずだったのだが。自宅から距離があり、交通の便を考慮しても行きにくかったのもあるかもしれない。

歴史あるものが好きな私は、墓参りで祖先の話を聞くことが好きだった。何も知らなかったから、墓は誰を差し置いても私が守りたいと思っていた。自分のペースを崩さない穏やかでたまに頑固な父親は、そこに他の兄弟が集まる時、幼少期の私が乗りやすいくらいには姿勢を崩さず、兄弟や孫たちの会話を聞き相槌をうち笑っていた。

4人兄弟の連絡網は、ほとんど長男が口火をきる。独身の次男は、毎日祖母と電話しているらしい。

母親にとってはどうか。母親は超パワフル、超という概念が霞むほどにはエネルギーがある人だ。母親はまた、他の地域だが父と同じような田舎で育った。

母方の祖父には、超頑固偏屈という私の造語が正しい。母親は地元ではなく、超頑固偏屈親父を押し退けて、自分の意思で地方都市で短大に進学した。

大学に息子たちを送り出した逞しい姑は嫁いだ母親に対して、はじめはよく思ってないこともあったらしいということを耳に掠めた。父が祖母に「彼女が母の魅力をわかる日が来るのは間違いない」と言ったらしいのは嬉しかったが。実際、私は生まれてから母と祖母の仲の良い様子しか見ていないし、祖母は私たちが大好きだ。母は最近、存在感が大きい。帰省するたびに大きくなる。

血の繋がりのない祖母と母親。でも、私も含め家族として繋がっている

祖母は田舎に帰るたびに私たちを可愛がり、美味しいものを食べさせてくれた。そして、振り返れば一つお土産を持たせた。お手玉だったり、編み物だったり。趣味を持つことは私に取って崇高なことで、俗から遠いと思われるほど私の中の趣味ランクが高まるが、祖母が私たちに伝えたものは高ランクだ。

私が東京の進学を決め、私の姉が薬学部に合格したと聞いて喜んだのは、親戚の中で祖母が1番だった。それまで住んでいた都市と比べても、東京の大都市感にただただ圧倒された私の話を祖母はよく聞いてくれた。

おばあちゃんのおかげで私の優しい父親がいるし、その娘たちの自由で希望のある進学につながっている。本当に感謝していると、母親は繰り返した。祖母には、母親が最近始めたフリースクールで、祖母の知恵を借りて、子どもに講師として様々なことを教えてあげて欲しいらしい。祖母の良い返事ももらったという。

血の繋がりのない祖母と母親、どちらの繋がりも持つ私と姉妹で、時代を超えてしまった。個人が生きた日々が重なった期間があるのみなので、超えてなどいないが、東京の美大に通い田舎に嫁いだ祖母と、私の母親と、東京に進学した私はつながっている。自由に進学して、選択肢を与えてくれたことに感謝。

祖母が来るのがいつになるかは決まっていないようだが、時間が流れて、流れた時を無駄にすることなく、あるべき方へ舵が切られている気がする。