親や親戚以外で長く関わる人といえば、あなたは誰を思うだろうか。友人や恋人という答えが多いと想像する。次いで、学校や習い事の先生か。
先生は、自宅で習字教室を開いていた。3歳の幼い私は母親に手を引かれ、そこへ連れて行かれた。門をくぐり庭へ一歩踏み入れると、墨の香りが漂っていたのを覚えている。薄暗い玄関から奥の部屋へ入ると、蛍光灯が煌々と光る中、数名の生徒が半紙へ筆を滑らせていた。先生は入り口近くに座っていた。
「元気があって良い字だね」。褒めてくれたのは、習字教室の先生
知らない場所で緊張して、「こんにちは」と言う私の声はか細い。よく見れば、生徒たちは小学生から高校生という、3歳児にとって途方もないお兄さんお姉さんばかり。生来の人見知りで泣きそうになるが、こちらを向いた先生の微笑みが、余りにも優しくて涙が引っ込んだ。
初めての習字は、ひらがな1文字だった。つ、こ、し、のどれかだった気がするが、曖昧だ。先生が、初めて使うから、と私の手の上から包み込むように一緒に筆を持って書いてくれた。筆を立てて書くんだよ。次に自分一人で書いた字は、とてもへんてこで恥ずかしかった。
何枚か書いて、先生へ見せて直してもらう。ここはもっと長くはらうとか、真っ直ぐな線にとか、先生の赤色が入る。よくできた所には丸。そういえば、小学生まで、必ず1枚は花丸をつけてくれた。元気があって良い字だね。何度ももらった言葉だ。
毎週土曜日の午前中、先生のところへ通った。用事で行けないときは家で書いて、翌週に持って行き見てもらった。欠かさず書いては赤色と丸をもらった。
長く続けていれば、そこそこ上達する。例えば、小学生の書初めの宿題で何度か賞をもらうくらいには。先生に報告して、良かったねと褒めてもらうと、とびきり嬉しかった。
教室を卒業しなかったのは、先生との繋がりが切れるのが嫌だったから
でも、私に書道の才能はなかった。高校生のとき書道部へ入り、痛烈に自覚したのだ。他の部員の作品と比べて、下手。何枚書いても、どこかひん曲がった字になる。たくさん賞を貰う人が何人もいる中、一番下の佳作をいくつか貰うのがやっと。
筆で文字を書き、作品を作る。上手く書けなくて、それ自体が苦痛になっていた時期だった。毎週土曜日の午前を、後ろ向きな気持ちで迎える。下手な字の書かれた半紙。それでも2、3回に一度はもらえる先生の花丸を、斜に構えた目で見ていた。
墨汁も筆も硯も嫌だったけど、書き終えたら先生と話すのが好きで、だから教室からの帰り道は足取りが軽かった。
高校卒業後、入った大学は地元から離れた場所だった。それに伴い、習字教室も卒業と思われたが、大人向けのクラスに先生から誘われた。
私は書いたものを教室へ郵送して、それを先生が添削して返送する。良い出来のものは出品することもある。もちろん、帰省したときは直接教室へ来て良い。断らなかったのは、先生との繋がりが切れるのが嫌だったから。
なんとなく先生と疎遠になって、私は忙しく働いている
こうして月に一度、私と先生のやりとりが始まった。けれども、すぐに終わる。大学3年生になり、ゼミが始まり忙しくなったと言い訳して、私は書道の世界から離れた。もう、「書くのは嫌」という気持ちを誤魔化せなかったのだ。
それからも時々、先生が出品した展覧会の案内はがきが届いたが、見に行くことはなかった。帰省したときに先生へ会いに行き、小一時間ほど近況報告をする。それも数回で終わり、なんとなく疎遠になり、私は社会人となった。
勤め先である小さな会社の事務はかなり忙しい。きりきり働くと、頭の中は仕事一色になる。時々、字を褒められる。手紙の宛名書きだったり、電話のメモを渡すときだったり。
そういうとき、先生を思い出す。赤色の花丸を幻視する。
先生の今を想像して怖気付いた私。先生への手紙は出せずじまいのまま
連絡を取らなくなってから、私は就職とともに引っ越した。もし先生が私へはがき送っても届かない。せめて、元気でやっていることくらいは、こちらから手紙を出してもいいのではないか。
元気でやっている。先生は、どうだろうか。正確には知らないけど、もう七十歳くらいなはず。最後に会ったとき、めっきり腰が痛くなって、と椅子に座っていた。いつも座布団に正座なのに。
怖気付いたのだ。元気でないだけでなく、もし、もうこの世にいなかったら。私が3歳のときからずっと、優しく見守って、いつも穏やかに話してくれて、手を取って教えてくれた先生。
先生への手紙は、始めの挨拶すらどうしても書けず、出せずじまい。買い揃えた便箋と封筒は、結局、他の人の所へ送ってしまった。
いつか勇気が出たらと言い訳をしているが、それは不可能に近いと薄々勘づいている。