自慢。
この言葉を聞いて、良いイメージを持つ者はあまりいないのではないか。
特に日本では、「能ある鷹は爪を隠す」ことが美徳とされており、いいものを持っていても謙遜する文化がある。
私は、その文化が好きだ。自慢して、妬まれ、和が乱れることがないよう、長い間日本が築き上げてきた「和」を重んじる文化ならではだからだ。
でも私は社会で働き始めてから、特に思うのだ。
日本では、自慢するハードルが高すぎるのではないか。
日本では、大層大きなことを成し遂げないと自慢できない風潮がある。
しかし、私はみんながもっと自分のことを自慢してもいいのではないかと、心の底から信じている。
今生きていること自体、そして仕事を頑張る自分も誇らしい
では、まず私から。
正直、私は自分が今生きていること自体を自慢したい。
ここまで私を生かしてくれた家族や友人に恵まれていることを誇りに思っている。
仕事で頑張っている自分も誇らしい。
長時間労働し、苦情対応でお客様から名刺を床に叩きつけられ、電話口で怒鳴られ、上司と部下の板挟みで毎日禿げそうになっても、翌朝またちゃんと出社する自分を褒めたたえたい。眠いのにきちんと起床する時点で褒めてほしい。
「社会人たるもの当たり前」だと言われようが、こんなの当たり前じゃない。
仕事を頑張っていることなんて、本来大統領クラスの人に褒めちぎってほしいくらい自慢していいレベルである。
一度、コロナで客足が遠のき、人件費を抑える為、一部の人員だけで現場をまわしていた時期があった。
「マネージャーだから当たり前」とみんな自分に言い聞かせていたし、もちろん私もそれは重々承知していた。きついシフトの中で、誰一人体調を崩さずやってのけた。
見回りに来た上司のそのまた上司に「調子はどうだい」と聞かれ、「お給料を二倍にしてほしい」と冗談でも言ってのけた自分もすごい。「これだから、ミレニアム世代は……仕事があるだけ、感謝しなさい」と諭されたのは言うまでもない。
本当にその通りである。しかし、それくらいみんなが頑張っていたのは事実だ。
職場では当たり前と言われてしまったので、ここであの時期頑張ったことを改めて自慢させてほしい。
「つまらないもの」「愚息が」と、自分に関わるものも謙遜する文化
休日も洗濯や掃除、皿洗いを済ませる自分も偉すぎるといつも思っている。
帰宅して、出社前に整えた自分のベッドを見ると、
「あんなに働いたのに、部屋もきれいだなんて。どこまで仕事ができる女なの」
と、一人部屋で酔いしれる。
手料理を作る自分も偉い。
お客様からの差し入れで苦手な食材をいただいても、インターネットの力を借りて創作し、あまりのおいしさに悶絶するあの時間。自分を嫁にしたいとさえ思ってしまう。未来のダーリン候補がいないのがあまりにも悔やまれる。
日本では、自分に関わるものまで謙遜する文化がある。
上等なお土産を用意しても、「つまらないものですが」と言いながら渡す。
どれだけ立派な息子がいても、「愚息が」「こんな息子ですが」と親が言う。
そんなわけないではないか。
以前、外国人の友人が日本人の彼女と付き合っていた際に、彼女の態度に憤慨していた。
理由を聞けば、まわりが彼を褒めても「別にそんなにすごくないよ」と彼女が受け答えしてたからである。「僕だったら、彼女がどれだけすごいか自慢するのに」と言っていた彼は、あまりにも悲しそうだった。
何も当たり前ではないから。私は昨日も、今日も、明日も偉い
その日以来、私は絶対に自分の子どもや旦那さんができた日には、人前であろうが本人が恥ずかしくて穴に入りたくなるほど褒めちぎろうと決めている。
私の父親が非常にいい例である。
自分についてはどこまでも卑下するが、私のこととなると自慢のオンパレードである。
「愚息が」とは絶対に言わない。職場で顔を出したかと思えば、「本当にうちの娘すごいんです」と知らない間に私の同僚と話している。
後から同僚に聞いて赤面したが、そんな両親に恵まれたことは私の人生で一番自慢できることの一つだ。
日本人は「当たり前」の基準が高すぎる。
何も当たり前ではない。仕事も、生活も、生きていることでさえも、当たり前ではない。
だから、全部自慢していいと思う。
自慢して和が乱れるような環境にいるのであれば、思いっきり乱せばいい。それはもはや、あなたにはもっとふさわしい和があるということなのだから。
私は昨日も、今日も、明日も偉い。そして、これからも自慢だらけの毎日を送るのだ。