恥ずかしがり屋で目立ちたがり屋のめんどうなわたしが「大、好き」だ

「生まれついてこのかた、何よりもかっこいいものが好きだ。ものっつうか、自分?そう、私、かっこいい自分が大、好き、だ」で始まる本。本谷有希子さんの『ほんたにちゃん』を4年前くらいに読んで、衝撃を受けた。
素直というか自己肯定感が高いというか、なんというか、もう、どうなってんの?って思ったのと同時に、わたし、それまでわたしはわたしをきらいだと思ってたけど、ちがった。この本は、この内容は、わたしのことを書いていると思った。
わたしはわたしが「大、好き」なんだって、気付いた。
以前、世界の中心からすみっこへという内容のエッセイを書いた。かがみよかがみで初めて掲載された「ドウドウ癖」のものだ(「まだ女王気取り?他人を問い詰める「ドウドウ癖」という私のみっともなさ」)。
よくあんなもの書いて息してられるなあと思ったり、する。
わたしはひとより何倍もめんどくさくて承認欲求が強くて、目立ちたがり屋の恥ずかしがり屋で、こんな自分を持て余してるつもりだった。だけど、こうしてエッセイを書くようになって、自分の行いとか、他人から与えられた影響とか、そういうの含めてわたしって意外と強くない?って思った。
だってこんなにめんどくさい自分を抱えて生きてる。めんどくさい人間関係抱えて生きてる。それって普通できなくない?知らんけど。
わたしは、医療従事者で、ほんとうは教員になりたくて、なれなくて、医療従事者で、すったもんだあれやこれやいろいろありつつも結局、その中でやりがいとか目標見つけられてるわたし、すごくない?真似できなくない?みんな。どう?
わたしを推すポイントって結構ある。
たとえば今日、帰りにファミマでプリンと肉まん買ったら、同じ袋に入れられたけど、ほんとうは分けてほしかったけど、なんてことないデスヨの顔してたし、待ち合わせに30分遅刻されても怒らないし、100円多くお釣りもらったらちゃんと申告するし、それになんてったってエッセイ書いて恥さらしてるし。
こんなにみっともない、めんどくさい存在なのに超、堂々と生きてるし。この世のどこかのみっともない族のみんなへ、のつもりはなくて、わたしは「単体で」かっこいいんだよね。
なんでもかんでもわかって欲しいとは思わないけど、なんでもかんでもわかりたいと思ってしまう自分の悪癖すらいっそ清々しくかっこいい気がする。どう?推す気にならない?
実のところ、わたしはわたしのことがわからなくなることもある。なんてったって目立ちたがり屋の恥ずかしがり屋なので。
恥ずかしいのよ。だけど目立ちたいのよ。というわけで、せっかくだし、わたしのこと、推していいよ。
「私、かっこいい自分が大、好き、だ」
たまになにもかもがいやになってしまうけれど、わたしのこころのなかの世界をそのたびに救いあげてるわたしは、とんでもなくかっこいいし、決して他人を救いたいとは思わないところもかっこいい、なぜならひとがひとを「救う」なんてのは傲慢だから。そこを弁えてる、そんなわたしが、わたしは、大、好き、だ。
「私、かっこいい自分が、大、好き、だ」
わたしってかっこいい。
でしょう?
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