私は、喧嘩という喧嘩をした覚えがない。どちらか一方が怒ってもう一方が無視して終わり、時間が経てば何事もなかったかのよう。
そのような結末が一体何度あっただろうか。
言い合えるのは、仲が良く気心が知れているからとも思えて
他人の喧嘩はよく目にしてきた。学校や職場その他諸々。傍観者の立場に立ったことことはある。しかし、関係者にはならない。関係者になろうとしない、という言い方のほうが正しいかもしれないが。
私は、殴り合いの喧嘩だけでなく、口喧嘩もしたことがない。忘れているだけかもしれないが。
喧嘩の思い出がある人がある意味羨ましい。
喧嘩は嫌いだが憧れていた。「喧嘩するほど仲が良い」というからだ。
喧嘩はめんどくさいからなるべくしたくないが、憧れていた。矛盾している私の憧れ。
高校時代、同じクラスのとある男女2人が、教室中に響き渡る声でよく言い合いをしていた。口喧嘩のようなこともたまにあった。しかし、数日経てば元に戻ってるのだ。
2人は笑顔で接していた。別にその2人がパートナー同士なわけではない。それでも、見るからに仲良しの2人だった。
私がどちらか片方に同じように口論になりそうなことをふりかけても、2人と同じようにはならなかった。
無視するかのように静寂だけが私にふりかかる。
喧嘩できるかできないか、元々の関係性も重要になってくるのである。
喧嘩している2人は何処かじゃれ合っているだけにも見える。
お互いわかっているから喧嘩できる。そのような部分もある気がする。
気心知れているから、言い合える。気心知れているという部分が仲が良い証拠のようにも思える。
「何を言っても無駄だ」と諦めから無視をしていたと思っていた
一般的な喧嘩がドラマなどのように激しいものもあるということを、私は知っている。
喧嘩は良いものもあれば悪いものもある。
しかし、憧れてしまっていた。
私には喧嘩するほど仲が良い人はいないな、と思ってしまっていた。
近年周囲で何か揉め事があると、
「喧嘩するほど仲が良いっていうじゃん!」
と笑いながら言ってしまうことが多い。
そう言いながらどこか胸が痛い私がいる。
「まあ、私にはそういう相手いないんだけどね」
とわざわざ口には出さないが、思わず言ってしまいそうになる。
口に出している張本人には喧嘩するほど仲が良い人はいない。
喧嘩とは方向性が違ったことができる友達なら何人もいる。
それは、意見が言い合える友達。
近頃、学生時代の友達とLINEして気付いたことがあった。
私は、喧嘩を仕掛けられた時、それを無視しているわけではないと。自分では「その人に何を言っても無駄だ」という諦めを感じているから無視をしていたと思っていた。
しかし、違う。自分とは異なった考えを持った相手を「そういう人もいるんだ」と考えて接していたのだと。
良く言えば、相手の意見の尊重だ。だから、自分の考えを押そうとはしない。そうして、喧嘩は回避されるのだと。
喧嘩ではなく、相手の意見を考えた上で話し合いで解決しようとする
学生時代の友達とのLINEは、一つの事柄について議論することがある。
私も友達も相手の意見を否定せず、こういう意見もあるよね!と認め合うから喧嘩にはならない。意見が異なることはよくある話だが、そこから喧嘩にはならない。
私は、物事を喧嘩で解決するのではなく、相手の意見を考えた上で話し合いによって解決しようとするのだと気付かされた。
だから喧嘩しないのだと。
それでも私は喧嘩にどこか憧れている。
きっとそれは、「喧嘩するほど仲が良い」という関係性に憧れているのだ。喧嘩自体に憧れがあるわけではなく、関係性の話なのだ。
もし今後私が誰かと喧嘩することがあれば、よっぽど喧嘩しないといけない人なのかもしれない。それはある意味貴重な存在なのかも。