「結婚したら、仕事は辞めてほしいな」
彼は無邪気な笑顔でそう言った。
交際中の彼氏は、メンタルが落ち着いていて、仕事にも真剣に打ち込んでいて、そして私をとても大切にしてくれている。俗にいう理想の結婚相手というべき人だ。裕福な家庭で育った彼は、幸せな家庭というビジョンが明確に描けていて、きっとその想像どおりに幸せを実現させるのだと思う。そのような彼と付き合っていると、私は自分の拗れた自立心を自覚する。
「あなたを幸せにしたい」と言われるより、「あなたと幸せになりたい」と言われたい。
「あなたを守るために頑張る」と言われるより、「あなたとなら、一緒に成長できる」と言われたい。これは贅沢なのだろうか。
専業主婦を望む男性の心情を想像する私は、きっと可愛くない女
専業主婦になってほしいという男性の心情を想像する。大事な奥さんに苦労をさせたくない、家で自分の帰りを待っていてほしい、家のことを任せて仕事に専念したい。甲斐性がある自分でありたい。
私は性格が悪いので、もっと別のことを考えてしまう。
経済的に自立させないことで、自分の優位を保ちたい。自分なしで生きられないようにすることで、支配欲を満たしたい。奥さんを養っているという自尊心を高めたい。そんなことを思う私は、きっと可愛くない女なのだろう。
仮に共働きになったところで、収入格差が開けば、収入分家事を負担しろと言われるのだろうか。彼は好きな仕事ができて、私は好きな仕事と好きでない家事をしなくてはならなくなるのだろうか。二馬力で浮いたお金で家事を外注するのではダメなのか。
子供ができてしまったら?やはり子育ては私が中心になって、キャリアを諦めなければならないのだろうか。向こうの方が稼ぎが良かったら、お互いが子育てするより分業した方が確かに経済的ではある。しかし、家庭は会社と同じように経済的でないといけないのだろうか。
資本主義の価値観で競争してきた彼のちょっとした発言に、稼ぐことが偉いという考え方を読み取ってしまう。私はお金じゃなくて私であるために働いているのに、お金という軸が出てきた途端、私の労働は彼にとって取るに足らないものになってしまう。
自分や相手それぞれの幸せが何なのか、そして二人の幸せが何なのか
私たちが犬や猫に対して「可愛い」と思うように、彼も私を弱い立場のものとして「可愛い」と思っているように疑ってしまう。
私は、「可愛い」で消費されたくないのだ。世間一般の幸せな家庭像に消費されたくないのだ。結婚したら私が彼の苗字になることを幸せだと信じて疑わない彼に、私は消費されたくないのだ。
もちろん結婚とは、互いが互いに「してあげたい」と思うことが大切であると思う。「パートナーを支えたい」という気持ちは尊いし、専業主婦も立派な労働者であるから、そういう結婚の形は素晴らしいと思う。けどそれは、あくまで「どういう自分でありたいか」が満たされたうえで成立するのであって、どちらかが犠牲になってはいけないと思う。
私は私の大事にしているものを一緒に大事にしてくれる人としか結婚したくない。一人ひとりの幸せの形は違うし、両者が重なる結婚においての幸せの形は、より複雑になると思う。
定型どおりの幸せな結婚なんてない。自分の幸せがなにで、相手の幸せが何なのか、そして二人の幸せが何なのか、模索し、それを楽しめる二人でありたい。
最終的に結婚しなくたっていい。そして二人がどうなろうとも、私は最後まで、私でありたいと思うのだ。