朝が始まる匂いがした。オーブントースターからチン、と音が鳴り響く。
香ばしい食パンの耳は、かりっと日焼けして、中心部分はもちもちとして柔らかい。最初は焼かずに食べていたのに、だんだん大人の真似をして食べ方にアレンジを加えるようになった。ロングセラー商品である食パンの変わらないロゴを見て、私は仄かに安心する。

祖父が手に持っていたのは、ハイクオリティな「ぶんぶんごま」で…

子どもの頃、息を飲む出来事があった。
幼稚園で「ぶんぶんごま」を作った日だ。ぶんぶんごまは、円形の厚紙に、タコ糸を通して振動させる手作りのおもちゃである。
自分だけのぶんぶんごまは幼稚園の時間が終わっても無限に遊ぶことができるので、格別の面白さがあった。

祖父はいつものように家にいた。
「ぶんぶんごま作ったよ!」
祖父に見せると、私と同じ顔をして弾けるように喜んでいた。
その翌朝のことだった。祖父を見ると、手にぶんぶんごまを持っている。
あれ?昨日置き忘れたっけ?返してもらったかな?そう思うや否や、祖父はぶんぶんごまを笑顔で回しながら私を見た。厚紙にはみ出したセロテープがない。切り取られた円形は澱みのない白で、一切角ばっておらず、豊満ささえ感じられる。

はっとして言葉を失った。私のものじゃない。間違いなかった。祖父は、自作のハイクオリティなぶんぶんごまを笑顔で回していた。
澄み切った確信は体を地面に強く縛り付ける。唖然とした表情のまま、どれくらい時間が経っただろうか。
おじいちゃんは、見ただけで作り方がわかったの?一日で作ったの?
誰にも言えない衝撃が、突風のように早朝のまどろんだ空気をかき消していった。 

桁違いの割り箸鉄砲に感じたのは悔しさではなく、尊敬だった

また月日が流れ、「割り箸鉄砲」を作る機会があった。
「割り箸鉄砲作ったよ!」
祖父に見せると私と同じようにはしゃぎ、割り箸鉄砲の輪ゴムをカーテンに飛ばして遊んだ。
翌日、精巧な割り箸鉄砲が出来上がっていたのには度肝を抜かれた。割り箸鉄砲はその場に残さなかったのに。割り箸鉄砲の方が、ぶんぶんごまより遥かに難しい構造をしている。なんで?こんなにすぐできるの?

私は幼稚園で時間をかけて割り箸鉄砲を作った。割り箸を組むところが一番難しいのだ。祖父の割り箸鉄砲は、形こそ私のものと同じだが、輪ゴムが何十にも巻かれていて、力強さが桁違いだった。
悔しいのではない。すごすぎる。後光がまぶしくて尊敬に尽きるのだ。

それ以外の記憶もある。買い物に行くと、祖父はいつも同じ食パンを買っていた。声に出して好きだとは言っていなかったが、いつもの大切なものなのだなあ、と子どもながらに見守った。

もしタイムスリップできるなら、祖父と一緒に作りたいものがある

また季節が流れ、祖父は体調が芳しくなくなり、入退院を繰り返すようになった。私は家の椅子に座る祖父の太ももに座った。冷たい手の甲や、肘の内側のしわしわになった肉をつまんでいる時、死んじゃったらどうしよう、今の感覚を全部焼き付けたいと思った。
その不安はそう遠くないうちに的中してしまった。
祖父のいなくなった椅子は、以前にも増して人の形を想像させ、その輪郭を際立たせる。

余白の中に色彩を描こうとして、余計に悲しみを深めた。祖父が大好きだったから、思っていることはたくさんある。お手紙に書いたこともある。
「おじいちゃん、楽しかったでしょ」。小さな手紙の文末に私はそんなことを書いていた。自分がそう思っていたし、何より祖父にそう思っていてほしいという願望が強くあった。もっと自分の気持ちを表す言葉をたくさん知っていたら、大人を感動させるような感謝の気持ちを伝えられたかもしれない。タイムスリップして戻れたら、小難しい言葉を繋いだ感謝の気持ちは似合うだろうか?

もし、感謝の気持ちを示すのなら、一緒にぶんぶんごまと割り箸鉄砲を作るだろう。また手を繋いで買い物に行くだろう。

朝、祖父の大好きだった食パンを食べている。