アルコールが飲めない。
この体質的な縛りが、こんなに窮屈なものだとは思っていなかった。
私の周りには酒を飲む友人が沢山いる。嗜好品として上品に飲む者、内気な自分にフタをするために利用する者、憂き日々から逃げるように飲み溺れる者、ただただ楽しく陽気に飲む者。皆それぞれ酒との向き合いこそ違うが、そこにはある共通点がある。
それは、理性から解放された「ここではないどこか」に一瞬でトリップ出来るところだ。

大人になるまでは、理性という鎖の鬱陶しさなぞ、意識したことさえなかった。すべてにきちんと向き合って、道筋だって答えを出すことは、ごくごく当たり前で、それで全て事足りていた。

失恋の痛みをお酒に頼ることも、忘れることも出来ず苦しい日々

上手くいかなくなったのは、23歳で失恋した時だった。相手はバイト先の先輩で、まるで猫のような性格のその人に、私はずっと夢中になっていた。
「失恋」といっても、告白してフラれたわけではない。1年間、言い方は悪いがあらゆる手練手管を使って、押したり引いたり頑張っていたのだが、どうにもこうにも上手くいかなかったので、諦めることにしたのだ。

失恋の仕方にもあらゆるパターンがあるが、このケースはなかなかきつい。告白する勇気もなく、しかし絶対に脈がないことがひしひしと伝わる中で、自分自身で恋にピリオドを打たねばならない。何故自分ではだめなのか、答えが出ても出なくても地獄なこの問いと一人向き合い続ける。

普通なら「お酒でも飲んで忘れちゃいな!」と一言カツを入れてもらえそうだが、生憎私は先述の通り体質的な問題でアルコールが全く飲めない。棘の生えた蔓さながらの自分の理性に痛めつけられながら、答えを出すことも、忘れることも出来ず苦しい日々を過ごしていた。

深夜、友人としたホットワインの話を思い出し、鍋に赤い液体を注ぐ

そんな時、友人と食事に出かける機会があった。クリスマスの近い、寒い冬の日。美術館で展示を見て、公園内の道を歩いてレストランへ向かう途中、友人がふいに、
「最近ホットワインにはまってて」
と話を始めた(ドイツ好きな友人で、正確にはホットワインではなく「グリューワイン」と言っていたが)。なにやら、スパイスや果物、いくつもの具材を試してオリジナルのレシピづくりに日々奮闘しているらしい。結局その話題はすぐに終わり、不幸なことに友人は、私の雪崩のような恋愛の愚痴にすぐ飲み込まれてしまったのだった。

23時ごろに帰宅して、ふうと一息つきつつ、手に持っていたビニール袋を机の上に置く。ゴトンと音を立てたのは、スーパーマーケットで買ってきた赤ワインのボトルとリンゴ、シナモンとクローブに、国産の瓶入りはちみつ。
帰り道、何気なく思い出したホットワインの話が気になって、衝動的にスーパーに寄ってしまったのである。ネットでレシピを調べて、フランス語で「ヴァン・ショー」と呼ばれていることも知った。とても素敵な名前だと思った。

ヴァン・ショーは、ワインと具材を煮詰めて作るので、アルコール度数の調節が可能だ。無論私は、ぐつぐつ沸騰させて、完全に飛ばしてしまう。
ぼんやり暖房のきいた深夜の部屋で一人、光るシルバーの鍋に赤い液体を注ぎ、リンゴを入れて火にかける。濃厚なワインと、スパイシーなクローブ、甘酸っぱいリンゴのほのかな香りが部屋中に充満する。オーディオから流れてくるHalie Lorenのホリディ・ソングが耳に心地いい。
最後に、耐熱タイプのグラスに果実が入ったままワインをそそぎ、仕上げにシナモンスティックを1本差して一周混ぜる。

長編小説のように複雑で、限りなく優しくて落ち着く味に満たされる

それを飲んだ時の感覚は、今でも鮮明に覚えている。魔法のような味だった。
重厚でありながら不思議な爽やかさがあり、分厚い長編小説のように複雑で、しかし限りなく優しくて落ち着く味。
その時の私は完全に満たされていて、失恋したことが遥か遠くの出来事に感じられるようだった。
「一体、どこに来てしまったんだろう」
そう思った。そして、もう一生幸せな気分にはなれないと絶望していたにも関わらず自分が元気になっていることに、むくむくと自信が湧いてきた。一人でも、幸せな気持ちにきちんとなれるのだ。

それから冬になると、ヴァン・ショーの季節が来たとワクワクする。
アルコールは依然として飲めないが、あの美しい飲み物は、たしかに私を「ここではないどこか」に誘ってくれた。そして、自分で自分を幸せにする、という最も基本的ながら難しく、簡単に忘れてしまう幸せの秘訣を思い出させてくれた。
きっとこれからも人生色々なことが待ち受けているだろうが、私は当分やっていけそうな気がする。なぜならヴァン・ショーの魔法が使えるようになったから。