きみはもう覚えていないと思うのだけれど、きみがくれたクリームパンを、私はずっと覚えている。
きみの存在は私にとって、今でもとても深い存在なのに、思い返してみると一緒にすごした時間は高校3年間だけだったなんて。とても短いんだね。

拒食症で死にかけていた日々。私にとって、食べることは恐怖でしかなかった

中学生のある時、私はずっと拒食症で、食べることはおろか、水を飲むことすらままならない時期があった。
どうして生きていることができたのか、いまでも不思議なくらい。毎日食べることは恐怖でしかなく、何か少しでも太りそうなものを飲み込むと、罪悪感で死んでしまいそうになった。
何かを食べて、おいしいと思うこころの余裕なんてどこにもなかったんだ。そしてあるとき生命の危険があると病院で入院したことをきっかけに、それ以降少しずつものを食べるようにはなったけれど、まともな食事は高校生になってもできず、仲の良い友達がさそってくれても一緒に食事をすることは怖くて、いつも教室のすみでひとり、ナッツだけとか、胸肉だけとか、へんなお弁当を食べていた。自分は偏食なんだ、甘いものがとても苦手で。というキャラ設定も入念にして。

原宿でクレープを食べて街歩き、なんてことは、夢のまた夢、というか、夢の中に出てきた甘いものすら、夢の中の私は拒否してしまっていた。

だから、君がくれたクリームパンを食べることができたのは、自分でもとてもびっくりしたんだ。きみがくれたのは、コンビニやスーパーで見かけるような、袋に4つ入りの小さな薄皮クリームパン。
朝の自習室で、小さなパックに入った甘い豆乳と一緒にパンをかじりながらきみは勉強していた。

いちばん大切で、そしていちども名前を呼べなかったきみとの出会い

高校1年のときに、美術の授業で隣になったのがはじめての出会い。お互い志望校に落ちてその高校に入ってきたという共通点があって、なんとなく話すようになったきみ。

最初、学年で一位の成績を取ったり勉強がうまく行っていたりした私はきみに対して、人生の先輩みたいに、お姉さんぶっていたね。
私にとってきみはなんとなくヘタレで、弱くて、弟のような存在で、それでいてきみとは人生について語り合うみたいなこともあった。

そんなにも親しいのにきみを一度も名前で呼んだことがないのは、きみとの距離が近づきすぎないように気を付けていたからだ。
きみに恋愛感情をいだけば、たぶんきみにとって人生について話し合えるような存在でいられなくなってしまうと思ったから。

顔が美しく整ったきみはこの先彼女ができるだろうけれど、たぶん人生について語り合える人は、あまり周りにいないだろうから、私がその一人になってあげたい。それに、ありふれた恋愛感情という名前できみに対する想いを表現したくなかった。

食事行動が異常で、普通の食事をできない自分の未来はあまり長くないと思い、元から誰かとお付き合いして、その未来を描く、なんてことはできなかった。私は、きみの人生にどうやったら自分の存在がプラスになれるか、そればかり考えていた。

どうしたらよいのかわからなかったあのとき。ただただ、きみを避けた

その後、学年で勉強の成績が良かった私だけが学年があがるとともに、特別枠で特進コースに入った。しかしその後、周りができる子ばかりのクラスの中で私の成績はあまり伸びなくなり、それと共にどんどん落ちぶれていった。

クラスが離れた後もきみとはたまに合うようになり、それからというもの、きみと会うたびに、きみにとって人生を語りあえるような立派な存在ではなくなってしまったと思っていた私は、落ちぶれた自分を見せたくなくて、露骨にきみを避けた。
くるしかった。はやくこんな私を嫌いになってくれ。そう強く願いながら。

ただいま思えば、願えば願うほどに、きみへの気持ちは特別なものになってしまっていたのかもしれない。そんな時期がだいぶ長くすぎ、いよいよ大学受験が近づいてきた。
ある朝、学年共用の自習室でいろんなクラスの人たちが朝の自習をする中に、きみはいた。

もうだいぶ背が高くなり、小鹿のような弱々しさはなくなって凛々しさを感じさせるきみの雰囲気にどこか寂しさを覚えた。
きみは私に気づいてくれて、ひさしぶりに勉強のことか何かを、いろいろ語り合った。その後、きみがクリームパンをくれたのだ。

「食べないと一生後悔する」。きみのクリームパンにかじりついた

きみはひとつやるよ、と4つ入りのパンからひとつ、差し出してきたのだ。
一瞬、躊躇ったのは事実だ。私はそれまで絶対食べなかったパン、それも甘いクリームがたっぷり入ったものを食べるなんてこと、この先の人生で絶対無理、と思っていた。

でも、今食べないと一生後悔する。そう瞬間的に思った。そして、かじりついた。
まるでいつもパンを食べているような自然さを意識して、なんでもないふうに。

きみもパックに入った豆乳をストローで吸いながら、おいしそうにクリームパンを食べている。きっと、これからの人生でこの瞬間を、このさきの人生何度も思い出すだろう、と思った。

その日、私ははじめて食べた後に微塵の後悔もなく、こころからものをおいしいと思えた。
そしてその時はじめて、きみが私にとってとくべつな存在で、大切で仕方のない存在だと気づいたのだった。

その日をきっかけに、私は食べることに対して自分がしあわせを感じられることに気づき、食べることがどんどん好きになった。

今では食関係の仕事についていて、毎日の食事をそれはそれはたのしく食べている。ただ、この先どんなにおいしいものと出会っても、きみと食べたクリームパンを私は思い出し続ける。そしてその度にきみとの日々を思いだす。

ああ、なんだか恥ずかしくなってきちゃった。
昔のことをふりかえるなんて、あまり私らしくないんじゃないって言われそうだね、きみには。まあ、すこしくらいいいじゃない。

もうきみと会えることは、この先きっとない。それでももし自分だけのきもちで夢をひとつかなえるとしたら、きみと会って、きみがすごくたいせつだったよ、と冗談めかしてきみをこまらせ、おいしいごはんを一緒に食べたい。