会えない時間が辛かった。
友達、家族、先輩後輩、そしてずっと想っているあの人。
会えない距離ではないことが、余計にもどかしさを感じさせた。
コロナ禍唯一の楽しみはSNSでみんなの近況を知ることだった
2021年11月。世はコロナ禍真っ只中。
飲みに行きたい、遊びに行きたい、募る衝動は右肩上がり。だけどそれは叶うことのない現実。
そんな状況の中で私の唯一の楽しみは、SNSでみんなの近況を知ることだった。
結婚した、子どもが産まれた、車を買った……。続々と目に入る親しい人たちの日常。
その日常に、少し前まで私がいたのかと思うと、近況をめでたく思うと共に切なさが更に増していくのだった。
みんなは私のことを気にかけてくれているのだろうか。
そう思うと、普段投稿しないSNSに自身の近況を載せたくなった。
「みんなに会えなくても、私はここにいるよ、元気にやってるよ。ちゃんと生きてるよ」
SNSは意思疎通のツールとしては便利だけど、心が貧しさを感じる
情報を得るだけではなく、発信するようにもなった。
少しでも周りとの繋がりを感じていたくて。
反応してくれる人は決まっていつも同じだったりする。画面越しの繋がりとは儚いものだとそこで痛感した。
あぁ、それもそうか。所詮は写真と文字のやり取り。
書こうと思えばなんでも伝えられる。
意思疎通のツールとしては便利な反面、心においては貧しさも感じられた。
そんな時だった。想いを寄せていたあの人から「イイネ」が来たのだ。
ボタン1つ押せば通知が来るそのシステムは、寂しさがピークに達した私の心に一筋の光を差した。
「あの人が私の投稿を見てくれている、反応してくれている」
ただ、それだけのことが、たったそれだけのことが無性に嬉しくてたまらなかった。
便利な時代だからこそ、大事なことは携帯ではなく心に刻んでいこう
それと同時に、それ以上何のやり取りもない事が、やはり寂しさを増幅させた。
私にとってのSNSは存在意義、生存報告のツールであるとともに、細い糸で繋がっているような人たちとの関わりをなくさないように存在しているものだと感じた。
想いを伝えるのは、会えた時に直接話そう。
こんな便利な時代だからこそ、大事なことは携帯に残すのではなく、心に刻もう。
きっと明日も携帯を開く。
それと同時に「会いたい」という思いも更に大きくなるのだろう。