自分の使った言葉そのものが相手からみた自分になるのなら、より良い言葉を使って好印象を持たれたい。
それはSNSでも同様であるように思う。
本を読まなくてもたくさんの情報を手に入れることが出来、会わなくても連絡がとれる現代において、それぞれの文章力や言葉でのコミュニケーションが廃れているように感じてならない。
初対面の相手からの第一印象がSNSからの情報になる事が頻繁にある現代。
我々の文章は、このままで良いのだろうか。

素敵な大人と話すとき、自分の言葉遣いによく違和感を覚える

私は今、職業訓練学校に通っている。
女性限定の23人のクラス。周りは30~40代のお母さん達。温かさと安心感で勉強にも集中できる。和気あいあいとした平和なクラスで、最年少の私はまったりと過ごさせてもらっている。

クラスの素敵な大人と話すと、よく違和感を覚えるのが自分の言葉遣いだ。丁寧な言葉を心がけていても、ついつい「です」が「っす」になりそうになったり、「本当ですか」が「マジですか」になりそうになる。
あまりに恥ずかしいので直そうとするも、会話が楽しくなってしまうといつの間にか口から出る。私自身もSNSに触れすぎた人間なのだ。
日々鍛錬である。

言葉は時代だ。
近年、若者言葉が急激に発展している。
それがSNSによって広く拡散され、流行を知らない若者は少なくなる。
お陰でみんなが共通の言葉を使うようになって、この言葉を使っていれば間違いない、という安心なシステムが出来上がる。

誰かに「いいね」される言葉でないと、発言してはいけないのだろうか

果たしてその若者言葉で、自分の大切な価値観や感情を表現出来た事はあるだろうか。
誰かに理解してほしい。そういった思いはいつの世も消えない。それなのに、我々は核心に迫る言葉であればあるほど避け始め他人の評価ばかりが気になってしまう。
そうなると文章を書く文化は十分に発達しているはずなのに、言葉の表現は発達しない。
誰かに「いいね」される言葉ではないと、誰かに「フォロー」される言葉ではないと、発言してはいけないのだろうか。
我々の言葉は、他人のご機嫌取りためにあるのだろうか。

どんな言葉も、優しさと思いやりをもって発信されるのであれば尊重されるべきである。
温かく優しい気持ちで綴られた言葉や伝えようと懸命に探した言葉。それらを顔が見えないと、気に入らないからと無下にしては自分自身の成長を止める。
難しい言葉だからと関心を持たず離れれば、またひとつ自分を表現する方法を失う事となる。
そしていつの間にか誰も理解してくれる人がいなくなって、真っ平らな愚痴をSNSに書き込むしか方法を知らない人間になる。
自暴自棄になって書き込んだ、その言葉に救われる可能性は極端に低い。
我々はそのような人間になってはいないか。

若者言葉の名残りから、個性を尊重しあえる言葉に変わることを祈って

今の30~50代が使う言葉と、現在の若者が30~50代になった時に使う言葉はおそらく違うものとなるだろう。
それが若者言葉の名残りではなく、各々が言葉での表現を高め個性を尊重しあうような言葉に少しでもなっていればいい。
そんな世になっていればと、温かい紅茶を飲みながら思う夜である。